ふやけた住人
「昨日は夜遅くにごめんね、ありがとう。さくらこもいくらか落ち着いて今は寝てます。お花見、良かったら家でしようよ。お弁当作って待ってます」
一読すると返信をせずに携帯を閉じた。花弁が落ちて葉が芽吹き始めた桜は鍔の赤さも手伝ってまるで違う花のようで少しだけ心が浮いた。
顔も名前も知っている、さくらこの父親の事を考える。慣れない駅の知らない出口で待ち合わせして会ったその男は、一回り年上で綺麗なスーツを着ていた。春子はいつもより可愛い格好をしていて、華奢な靴を履いて終始ニコニコしていた。私の知らない光る石のついたピンクゴールドのネックレスがオープンカフェの日差しに輝いていた。
「君が市子さんだね、春子からいつも話は聞いています」
子ども扱いをするような言葉に私は機嫌を悪くして、春子が焦ったように話をつなぐ。優柔不断で甘いものの好きな春子がケーキに目もくれずにトマトサラダを頼んだのでもう知らない人かもしれないと思う。知らない格好の知らない人とテーブルを囲んで、私の前にシフォンケーキが届く頃にはもう完全に帰りたい気持ちで一杯だった。シフォンケーキなんて本当は全然好きじゃなかった。
「市子酷いわ、きっと仲良くしてくれるって言ったのに」
座って私を見上げながら拗ねたように言う春子の鞄に、似合わないポールチェーンの見慣れないタグを見つける。愛らしいピンクと白に親子の描かれた丸いちゃちなそれが、私の知る春子とはまるで別人なのだと私に見せ付ける。自分の骨盤の間に格納された眠る器官と春子のそれ、その中の生命に嫉妬する。さっき会った男の意外にすべすべした指先を思い出した。銀色の指輪をして、丁寧に紅茶を混ぜていた。
「ねえ市子、」
「なに」
「この子の名前、市子につけて欲しいの」
春子のお腹に抱えられた生命が春子の体に巣食って行く妄想をすると、吐き気がした。地下鉄の窓に映る車内の、優先席の親子連れを良く覚えている。
春子の家の最寄りの薬局に寄る。子供の絵のついた熱冷ましの額に貼るシートとアクアライトと、少し悩んでシロップのバファリンを籠に入れる。それから季節限定のポテトチップスと午後の紅茶、こっちも悩んで春パッケージの金麦も買う。
来てくれたのね、と玄関先で笑う春子に「当たり前じゃない」と笑い返す。ベランダへの窓が半分開けられた居間にさくらこが寝かされている。冷えピタありがとうねえと春子がキッチンでサンドイッチをお皿に並べながら言う。
「もう来週がゴールデンウィークよ、驚いちゃう」
「四月も終わるものね、早いね」
「桜間に合って良かったわ」
ベランダの向こうに大振りの枝が右から張り出していて、花弁が風にさわさわと散っていた。白より赤や緑の目立つ桜は、正直間に合っているとは言い難かったけれど春子がにこにこしているのでどうでも良かった。
「ねえ市子私ね、市子が居てくれて本当に良かったと思う」
「何? どうしたの急に? そんなに冷えピタ欲しかったの?」
「違うわ、そう言うんじゃなくてよ」
低い卓の向かいに座った春子が真面目そうな顔をしていたので茶化すようにすると、うふふと春子が笑うので少し安心する。
「ほんとによ、本当に。良かったなあって」
それだけ、と言って春子は外を眺める。さくらこが目を覚ますようだ。
帰りに、マンションの入り口につつじが植わっていることに気付いた。もう何度も訪れたはずなのに初めて気付いた。安いプラスチックみたいな色の花弁は、水滴の形に色が抜け折れた所から茶色く変わっていた。桜のミルクティを駅前のゴミ箱に捨てた。
その日私は夢を見た。今まで存在したあらゆる春子の総体としての春子と、多分今まで存在したあらゆる私で、水中にあるお菓子みたいな家に住んでいる夢だった。何処へでも行けるチョコレートのバスに二人で乗り込んで、空さえ飛べた。さくらこは代わる代わるに抱いて、何処へだって行けるのだと。
おしまい