田島くんと妹尾さん
田島なりの、一世一代の大勝負のつもりであった。
「せっ。せ、せ、せのおさんっ」
大勝負を意識しすぎて、初っ端の呼びかけからいきなり噛んだ。
正しくは「妹尾さん」と呼びかけるつもりであった。
「何だろうか、田島くん」
当の「妹尾さん」は、田島とは対照的に実に泰然としていた。
田島の目の前で、田島の部屋のこたつに入って、きのう田島がスーパーで箱ごと買ってきたみかんの皮を剥いている。彼の膝の上では、やはり田島の飼う黒猫が体を丸めている……飼い主よりも客の妹尾に懐いているのが、なんとなくやるせない。
「うむ。やはり冬はこたつでみかんが最強だ」
言いながら妹尾は真面目くさった顔でみかんをひと房口に入れ、目の前に置いた本の頁をぱらりとめくる。日中は大学で教鞭をとっている妹尾の読む本はいつも字が細かく装丁も重厚で、田島の住む安アパートの部屋にも、こたつとみかんにもひどく不似合いだ。
「あのな妹尾さん、俺の話を」
「もちろん聞いている。だがその前に、きみもこたつに入って暖まってはどうだろうか。ここはきみの家なのだから、私に遠慮などせず寛ぐといい」
むしろ妹尾のほうが、人の家で寛ぎすぎなのだ。彼自身にはそういう意識はまったくないが。
「そのー、なんだ……その前にちっと、大事な話があるんだけどさ」
「ふむ」
ようやく妹尾の興味を引けたようだった。
「こたつに入っていては話せないような込み入った話か」
「お、おう」
「ではどういった用件なのか、まず事前に軽く要旨だけでも説明してもらいたい。事情によっては私も姿勢を正そう」
「そこまではしなくていいっつーか……別に深刻な話とかじゃねんだけど、俺の心構えの問題っつーか」
だがここまで大仰に構えられると逆に言いにくい。別に暗い話題というわけではないのだから。どう切り出したものか、畳に胡座をかいたまま尻をもじもじさせる田島の姿をしばし眺め、ああ、と妹尾はようやく得心がいった顔をした。
「これは気が利かなくてすまない。セックスがしたかったのか」
予想もしない方向から変化球が飛んできて、田島は思わず激しく咳き込んだ。
いちおう体を重ねる関係ではあるのだが、どこか無機質めいた容貌の妹尾の口からこの手の露骨な言葉が出ることに、どうも田島は未だに慣れない。
「確かに最近なかなか会えなかったからな。年長者の私が察して然るべきだった」
だが当の本人は田島を置いてけぼりにしたまま、話題はどんどん遠ざかる。あくまで淡々とした口調であった。
「特にきみは若いから何かと大変だったろう。詫びといってはなんだが、もしきみから何か要望があれば、是非できる範囲でサービスしてあげたいと思う」
……さ、サービス?
魅惑的なその言葉は聞き逃せなかった。サービスというとつまり、つまり、あんないやらしい行為や、こんなはしたない格好や、知識としてしか知らないそんなふしだらなことまでしてもらえるのだろうか、それともさせてもらえるのか。若い田島の想像力の翼が、「サービス」という単語の風を受けて飛翔したとして、いったい誰に責められるだろう。
ああ駄目だ妹尾さん、そんなことしちゃ。いやいいんだ、田島くんが喜んでくれるならこのぐらい。何故なら私はきみを愛しているのだから。ああ、あんたって人はなんていじらしいんだ。もちろん俺だってあんたを愛してる……。
「……合意を見たということでいいだろうか。ではさっそく布団を敷こう」
「い、いやいやいや!」
膝から猫をどかせた妹尾が押し入れから布団を下ろし始めたところで、田島はようやく我に返った。
「ちょっと待て妹尾さん、一人で話進めんな! 布団は敷かなくていいから!」
「しかし、さすがにこのこたつは男二人がまぐわう場としては少々手狭では」
「ま、まぐわうとか言うなよ!」
意外と純情な田島であった。
「まあ、きみが是非にこたつセックスに挑戦したいというのであれば、無論私としてもその挑戦を受けて立つにやぶさかではない」
「誰も挑戦してねえ! その発想から離れろ! 一度原点に戻れ! やりてえわけじゃねえから!」
「そうか。したくないのか……」
「いやその言い方もなんかちげえって!!」
「私はしたい」
一瞬、室内に沈黙が満ちた。妹尾は眼鏡を外し、丁寧な手つきで折りたたんで、こたつの上に置いた。
「実は今日はそのつもりで来た」
そこまでが、田島の我慢の限界だった。
……人間たちが何やら騒がしくなってきたのを察知して、黒猫はのそりと身を起こした。
飼い猫はなんとも大儀そうにひとつ欠伸をした。畳の上では二人の男たちが情熱的にもみ合っている。猫はその様子をしばらく眺めていたが、やがて興味をなくしたように、点けっぱなしのこたつの中へと潜りこんでいった。
『一緒に住まないか』と田島が言いだせるのは、まだ当分先のようである。