優しい殺意
静かな石壁に足音までも吸い込まれていくような感覚がして、エリオットは眉を顰(ひそ)めた。
静寂の中、よく耳を澄ませばそこかしこから小さな声が聞こえてくる。
それは女の声であったり、まだ声変わりもしていない少年の声であったりと様々であったが、どの声も恨み、憎しみ、嘆きを謳(うた)っているという点では、そう大した変わりはなかった。
それはこの世に対するものであり、ある特定の人物に向けられたものであり、あるいは全てに対しての怨嗟であった。
この声が止むことは永遠にないのだろう。
人に憎悪という感情があり、この場所がある限りは。
エリオットは早くも自分の新しい職場に辟易していた。
何しろ牢屋という場所は地下にある上に滅多に掃除などされないのだから、水に濡れた石畳は鼠が徘徊し、泥や苔にまみれている。
これを片付けなくてはならないのかと思うと嫌になる。
掃除は、大抵新人の仕事だというのが相場だからだ。
案の定、牢の入り口にある椅子に座っていた先輩らしき人物は、無言で掃除用具を指差した。
大人しくエリオットがそれを掴むと顎で床を示され、ため息をつきながらも汚らしい床を磨き始める。
それなりに広いはずの牢屋は、仄暗さと相俟(あいま)って妙な圧迫感を与える。
その一番奥の牢に、女性が一人で座っていた。
他の囚人は相部屋であるというのに、彼女はまだ他の囚人が来ていないだけなのか、只一人で、何を言うでもなく座っている。
静かに佇む姿は神秘的で、月の様な印象を与える。
深緑の瞳は柔らかく弧を描いており、長くくすんだ金色の髪は緩やかに結ばれ肩に掛かっている。
透けるような白い肌には皴(しわ)もなく、まだそう歳を重ねていないことが伺われた。
顔は特出して美しいわけではないが、醜くもなく、むしろその穏やかな表情は見る人に好印象を与えるだろう。
探せば何処にでもいそうな普通の女性で、一体何故このような所に入れられる羽目になったのか、牢番という仕事を始めたばかりのエリオットには想像が付かない。
しかも牢屋の奥といえば窃盗などの罪で入れられる場所ではない。
もっと重い、そう、たとえば殺人のようなことをしなければこんな場所に入れられることはない。
先輩がだらしなくワインを呷っているのを確認してから、好奇心に負けたエリオットはそっと声を掛けた。
「初めまして」
話しかけられるなどとは思っていなかったのだろう。
彼女は僅かに驚いたような素振りを見せ、しかしすぐに柔らかく微笑んだ。
「初めまして。新しい牢番さんですか?」
「ああ、日雇いだがね」
口元に手を当てて笑う姿は女性らしく、かといって上品過ぎもせず好ましい。
「牢番さんなのに囚人に話し掛けるなんて、いいんですか? それにお仕事しないと」
持っていた掃除用具を指差され、エリオットは笑いながら頭を掻く。
苦笑を浮かべながら、ワインを一瓶空けてほろ酔い気分の先輩牢番を示した。
「いいさ、先輩もあれだし」
「ふふっ、確かに」
可笑しそうに笑う声が牢屋の中で異質に響く。
異質だと思いながらも、その声に安堵している自分がいることにエリオットは気付いた。
ひとしきり笑って落ち着いた彼女に、エリオットは恐る恐るといった風情で声を掛ける。
「あの……」
「はい?」
「なんで君のような人が此処に?」
彼女はきょとんと瞠目した。
そして優しく微笑む。
「ああ、貴方はこの辺りの方ではないんですね」
納得したような声にエリオットは首を傾げる。
彼女は何か有名な人なのだろうかと思って、不意に嫌な考えに辿り着いた。
牢屋にいて、この辺りの人なら誰でも知っているとなれば、それはつまりその行為が広まるほどの事をしたという事に他ならない。
「そうですね。では少し、昔話でもしましょうか」
つまらない話かもしれませんがそれでも宜しいですか、と彼女は首を傾けた。
エリオットが頷くのを確認すると、彼女は首を逸らして過去に想いを馳せる。
過ぎ去りし日を懐かしむように、ゆっくりと唇が開かれた。
「私達が住んでいたのは、町外れの小さな家です。
周りには殆ど民家もなく、育てた野菜を町で売って生計を立てていました。
母は産後の肥立ちが悪く、妹が生まれてすぐに亡くなりました。
私が三歳の時です。
おぼろげながらも記憶に残っている母は、とても優しく儚い人でした。
母が亡くなってからは父が男手ひとつで私と妹を育ててくれました。
私は妹と二人で父の畑仕事を手伝ったり、町に野菜を売りに行く父について行ったりしました。
とは言ってもそれが父の手伝いになっていたかどうかはわかりません。
それでも、野菜が売れて町から帰る時に父はいつもその大きな手で私達の頭を撫でて、『ありがとう、お前達がいたから今日もいっぱい野菜が売れたよ』と笑って言ってくれました。
私達は、そんな父が大好きでした。
そう豊かではなかったけれども、私達は幸せでした。
とても、幸せに暮らしていました」
彼女は瞳を開いて、エリオットに向けて微笑んだ。
何処か虚ろな笑顔だった。
「私が十四歳の時です。
父は病を患いました。
父は寝込みました。
高熱で、通常ならベッドから立つことすらままならないはずでした。
それでも父は私達のために働こうと、無理に立ち上がり、畑に出てしまったのです。
薬は売っていました。
しかし私達はそれを買うだけのお金を持ってはいなかったのです。
冬を越して春に蒔く種を買うだけのお金を稼ぎ、細々と生活を営む私達に、どうして町の有力な商人ですらやっと手に入るかどうかという高価な薬が買えましょうか。
そうして父は死の間際まで私達のことを気に掛けながら、畑に立ったその日に帰らぬ人となりました」
彼女は自らの髪をその細い指に絡める。
真っ直ぐな毛先は幾ら絡め取ろうとしても、すぐに零れ落ちてしまう。
視線を指先に落として、彼女は再び語り出す。
「私と妹は父の畑を継ぎ、二人で父との思い出が詰まった家で暮らしました。
春には畑を耕して種を蒔き、夏には離れた所にある川から水を運んで来て野菜に与え、秋には僅かながらの収穫に顔を綻ばせ、冬は布団に包まれ二人で抱き合いながら寒さと飢えを凌ぎました。
男手もない、女二人だけの生活は苦しくもありましたが、私達は寄り添い合って生きていました。
人から見れば哀れまれるだけの家庭だったでしょう。
ですが私達は自分達のことを不幸だと思ったことは一度もありません。
たとえ二人きりの家族でも、そこには温もりが、思いやりが溢れていたのです。
……妹は私とは違い、優しくて明るく、とても可愛らしい子でした。
どんなに辛くても弱音を吐こうとはせず『頑張ろう、お姉ちゃん!』と言ってくれました。
太陽のような子でした。
その笑顔に私がどれだけ助けられてきたことか、表わすことなど出来ません。
その優しさにどれだけ救われたことか、言葉にすることが出来ないほどです」
ふう、と彼女は息を吐き出す。
エリオットの中で疑問が首を擡(もた)げた。
両親に先立たれた二人きりの姉妹が寄り添い合って生きていた。
そこまでは別にいい。
しかし、何故このような場所にいるのかとは到底結びつかない。
静寂の中、よく耳を澄ませばそこかしこから小さな声が聞こえてくる。
それは女の声であったり、まだ声変わりもしていない少年の声であったりと様々であったが、どの声も恨み、憎しみ、嘆きを謳(うた)っているという点では、そう大した変わりはなかった。
それはこの世に対するものであり、ある特定の人物に向けられたものであり、あるいは全てに対しての怨嗟であった。
この声が止むことは永遠にないのだろう。
人に憎悪という感情があり、この場所がある限りは。
エリオットは早くも自分の新しい職場に辟易していた。
何しろ牢屋という場所は地下にある上に滅多に掃除などされないのだから、水に濡れた石畳は鼠が徘徊し、泥や苔にまみれている。
これを片付けなくてはならないのかと思うと嫌になる。
掃除は、大抵新人の仕事だというのが相場だからだ。
案の定、牢の入り口にある椅子に座っていた先輩らしき人物は、無言で掃除用具を指差した。
大人しくエリオットがそれを掴むと顎で床を示され、ため息をつきながらも汚らしい床を磨き始める。
それなりに広いはずの牢屋は、仄暗さと相俟(あいま)って妙な圧迫感を与える。
その一番奥の牢に、女性が一人で座っていた。
他の囚人は相部屋であるというのに、彼女はまだ他の囚人が来ていないだけなのか、只一人で、何を言うでもなく座っている。
静かに佇む姿は神秘的で、月の様な印象を与える。
深緑の瞳は柔らかく弧を描いており、長くくすんだ金色の髪は緩やかに結ばれ肩に掛かっている。
透けるような白い肌には皴(しわ)もなく、まだそう歳を重ねていないことが伺われた。
顔は特出して美しいわけではないが、醜くもなく、むしろその穏やかな表情は見る人に好印象を与えるだろう。
探せば何処にでもいそうな普通の女性で、一体何故このような所に入れられる羽目になったのか、牢番という仕事を始めたばかりのエリオットには想像が付かない。
しかも牢屋の奥といえば窃盗などの罪で入れられる場所ではない。
もっと重い、そう、たとえば殺人のようなことをしなければこんな場所に入れられることはない。
先輩がだらしなくワインを呷っているのを確認してから、好奇心に負けたエリオットはそっと声を掛けた。
「初めまして」
話しかけられるなどとは思っていなかったのだろう。
彼女は僅かに驚いたような素振りを見せ、しかしすぐに柔らかく微笑んだ。
「初めまして。新しい牢番さんですか?」
「ああ、日雇いだがね」
口元に手を当てて笑う姿は女性らしく、かといって上品過ぎもせず好ましい。
「牢番さんなのに囚人に話し掛けるなんて、いいんですか? それにお仕事しないと」
持っていた掃除用具を指差され、エリオットは笑いながら頭を掻く。
苦笑を浮かべながら、ワインを一瓶空けてほろ酔い気分の先輩牢番を示した。
「いいさ、先輩もあれだし」
「ふふっ、確かに」
可笑しそうに笑う声が牢屋の中で異質に響く。
異質だと思いながらも、その声に安堵している自分がいることにエリオットは気付いた。
ひとしきり笑って落ち着いた彼女に、エリオットは恐る恐るといった風情で声を掛ける。
「あの……」
「はい?」
「なんで君のような人が此処に?」
彼女はきょとんと瞠目した。
そして優しく微笑む。
「ああ、貴方はこの辺りの方ではないんですね」
納得したような声にエリオットは首を傾げる。
彼女は何か有名な人なのだろうかと思って、不意に嫌な考えに辿り着いた。
牢屋にいて、この辺りの人なら誰でも知っているとなれば、それはつまりその行為が広まるほどの事をしたという事に他ならない。
「そうですね。では少し、昔話でもしましょうか」
つまらない話かもしれませんがそれでも宜しいですか、と彼女は首を傾けた。
エリオットが頷くのを確認すると、彼女は首を逸らして過去に想いを馳せる。
過ぎ去りし日を懐かしむように、ゆっくりと唇が開かれた。
「私達が住んでいたのは、町外れの小さな家です。
周りには殆ど民家もなく、育てた野菜を町で売って生計を立てていました。
母は産後の肥立ちが悪く、妹が生まれてすぐに亡くなりました。
私が三歳の時です。
おぼろげながらも記憶に残っている母は、とても優しく儚い人でした。
母が亡くなってからは父が男手ひとつで私と妹を育ててくれました。
私は妹と二人で父の畑仕事を手伝ったり、町に野菜を売りに行く父について行ったりしました。
とは言ってもそれが父の手伝いになっていたかどうかはわかりません。
それでも、野菜が売れて町から帰る時に父はいつもその大きな手で私達の頭を撫でて、『ありがとう、お前達がいたから今日もいっぱい野菜が売れたよ』と笑って言ってくれました。
私達は、そんな父が大好きでした。
そう豊かではなかったけれども、私達は幸せでした。
とても、幸せに暮らしていました」
彼女は瞳を開いて、エリオットに向けて微笑んだ。
何処か虚ろな笑顔だった。
「私が十四歳の時です。
父は病を患いました。
父は寝込みました。
高熱で、通常ならベッドから立つことすらままならないはずでした。
それでも父は私達のために働こうと、無理に立ち上がり、畑に出てしまったのです。
薬は売っていました。
しかし私達はそれを買うだけのお金を持ってはいなかったのです。
冬を越して春に蒔く種を買うだけのお金を稼ぎ、細々と生活を営む私達に、どうして町の有力な商人ですらやっと手に入るかどうかという高価な薬が買えましょうか。
そうして父は死の間際まで私達のことを気に掛けながら、畑に立ったその日に帰らぬ人となりました」
彼女は自らの髪をその細い指に絡める。
真っ直ぐな毛先は幾ら絡め取ろうとしても、すぐに零れ落ちてしまう。
視線を指先に落として、彼女は再び語り出す。
「私と妹は父の畑を継ぎ、二人で父との思い出が詰まった家で暮らしました。
春には畑を耕して種を蒔き、夏には離れた所にある川から水を運んで来て野菜に与え、秋には僅かながらの収穫に顔を綻ばせ、冬は布団に包まれ二人で抱き合いながら寒さと飢えを凌ぎました。
男手もない、女二人だけの生活は苦しくもありましたが、私達は寄り添い合って生きていました。
人から見れば哀れまれるだけの家庭だったでしょう。
ですが私達は自分達のことを不幸だと思ったことは一度もありません。
たとえ二人きりの家族でも、そこには温もりが、思いやりが溢れていたのです。
……妹は私とは違い、優しくて明るく、とても可愛らしい子でした。
どんなに辛くても弱音を吐こうとはせず『頑張ろう、お姉ちゃん!』と言ってくれました。
太陽のような子でした。
その笑顔に私がどれだけ助けられてきたことか、表わすことなど出来ません。
その優しさにどれだけ救われたことか、言葉にすることが出来ないほどです」
ふう、と彼女は息を吐き出す。
エリオットの中で疑問が首を擡(もた)げた。
両親に先立たれた二人きりの姉妹が寄り添い合って生きていた。
そこまでは別にいい。
しかし、何故このような場所にいるのかとは到底結びつかない。