私女王様化計画始動?
私の手には、一本の鞭。夕日を受けて鈍く光るそれは、ベッドの上で向かい合わせに座っている彼から恐々と手渡された物だ。ここはサーカスでもなければ、競馬場でもない。昨日までにも何度か訪れたことがある、(更にその内の何度かは、まぁ、そういうことに及んだ日もある、)彼の部屋だ。少なくとも、鞭に出番の訪れる場所とは考えにくい。
「……きぃ」
“きぃ”とは、彼が私を呼ぶ時に使う名前だ。彼だけが使うその呼び名を、私は気に入っている。
私は今一度彼に視線を向けた。鞭を渡されたときと変わらない、何かに期待をしている目が私を見ている。
「えっと……何で鞭?」
遂に問いかけた私の、背中の上から下までを何か覚えのある感覚が駆け抜けた。数年前、三歩先にビルの看板が落ちてきた直前と同じ感覚だ。つまりは嫌な予感。
「あ、やっぱり言わな「それで、俺を打ってくれないか」」
咄嗟に質問を取り下げたが、間に合わなかった。あまり直視したくない現実が、私の前に絶大な存在感を発しながら腰を降ろした。私はノーマルだ。誰にでもなく、自分に言い聞かせた。例え彼がどんな性癖の持ち主だろうと、私までそれに染まる必要はない。そう、私はノーマルだ。
静まった空気に焦れたのは、彼だった。
「きぃがノーマルなのは知ってる。だから俺はきぃと“普通の”付き合い方をしてたし、満足してた。セックスだってそうだ」
躊躇いなくセックスと口にした彼に、驚くと共に顔が熱くなってくる。今更純情ぶるつもりはないのだが、“そういう”話題はどうも聞いていて恥ずかしくなってしまう。彼が私を見て軽く笑った。身を乗り出して、ぽかぽかする私の頬を掌で撫でてくる。
「もう散々やることやったくせに、何照れてんの」
私をからかって楽しそうに笑う彼は、やはりいつも私が見惚れてしまうその人だった。彼の掌から何かが伝わってくるような気がして、頬をそれに押し付ける。彼がまた笑った。
「俺さ、きぃのことは本当に好きなんだ」
「うん」
それは知っている。自惚れかもしれないが、日常を過ごしていて彼の愛を感じることは多々ある。
「きぃに会うまでの、形だけ付き合ってた子達とは違う。きぃだけはどうしても欲しかったし、今は離したくない」
もしかすると、私は今とんでもなく恥ずかしいことを言われているのではないだろうか。というか、恥ずかしすぎる。けれど、彼がこの後にどんな言葉を続けるのかわからない私は、ただそれらの言葉を受け入れる他に何もできない。
「だから、きぃにこのことを話すつもりはなかったんだ。本当は」
“このこと”とは何のことなのか、一瞬本気で考えてしまった。忘れていたが、今は彼の性癖について話していたのだった。
「じゃあ、どうして今になって話すの?」
離したくない、とまで言われたのだから、私と縁を切るためではないだろう。そう願いたい。
「それが、なぁ……」
彼は私の頬から掌を放し、言い難そうに視線を泳がせた。性癖のカミングアウトという事件を起こした後で、何をそんなに戸惑っているのか。私からすれば、もう先程以上の衝撃に襲われることはそうないと思うが。
「その、きぃで妄想……っつか、考えちゃったんだよ」
「何を?」
彼の視線の照準が、私の手の中の鞭に合わされた。そうやってしばらく熱心に鞭を見つめていると、彼は熱のこもった溜め息を吐き出した。
「もし、きぃが女王様やってくれたら、って」
鞭からは視線を外さずに、彼は続ける。
「いや、今の付き合い方に不満がある、って訳じゃないんだ。ただ、一回考えると、どうしても我慢できなくなって……頼む。一回、一回だけでいいから、その鞭で俺を打ってくれないか?」
そう早口で言った彼の息は荒い。一息で言い切ったからかと思ったが、どうやらそうではなく、彼が興奮しているからだった。一体何を想像しているのか。正直、彼の言っていたことはあまり理解したくなかった。今までの人生をノーマルから外れずに生きてきた私が、突然その道を外せと言われて、そう簡単に従えるはずがない。
しかし私は、それができるほどには、彼を好いているのだった。
「私……鞭とか使ったことないから、使い方とか教えてね?」
「きぃ……!」
彼は私の手を鞭ごと掴んで、いつになく瞳を輝かせた。更に息が荒くなった彼を見て早まったかと思っても、もう遅い。
「あ、あまり期待はしないでね」
一応釘は刺したが、この調子だとすぐに抜けてしまうだろう。むしろ、刺さっているかすら怪しい。
「それじゃ……」
早速、と言わんばかりに、彼は服を脱ぎだした。上半身裸になった彼の背には、数えきれない程の傷跡がある。昨日まではわからなかったそれらの理由を、今になってようやく理解した。
気が付くと、私は彼に抱き込まれていた。かけられた毛布が二人分の体温を逃がさずにいてくれて心地よい。
「……きぃ」
呼ばれた方に顔を向ければ、彼が私を見て微笑んでいる。なぜかうっすらと頬を染めて。
「きぃ、凄かった。素質あるんじゃないの?」
うっとりと何かに思いを馳せる彼。しかし私は、彼が何を言っているのかまるでわからない。もう少し周りの状況を把握しようと、彼の腕をほどいて起き上がる。まずわかったのは、私と彼が裸なこと。そして、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいることだった。
おかしい。私が鞭を渡された時は夕方で、私も彼も服を着ていたはずだ。いや、彼はその後、上半身の服を脱いだ。それから?
「ノーマルだったのに、あんなことまでしてくれるなんて……」
私は一体何をした?
作品名:私女王様化計画始動? 作家名:菅野