君が世界
4.よくわからないけど大丈夫
そういうふうにしてサヤカはイゼルと共に旅へ出ることになった。
とはいえ、サヤカはこの世界に関しては全く何も知らないので、森が地図上どの辺りにあるかも知らない。しかしその辺りはイゼルがちゃんと知っているようだった。
イゼルはあまり口数が多い方ではない。しかしそれはサヤカが話せないので――通じたと思ったのは名前だけで、それ以外はどうにも伝わっていないようだ――必然的に独り言になってしまうからであり、仕方ないだろう。
「あれはランディシアとの国境に当たる魔の森だろう。あの湖へ流れ込む河を上るとハミッツの右翼へ出るはずだ。山は登れるか?」
(たぶん平気)
行き先は決まったらしい。こくこくとうなずくと、たてがみをそっとすかれた。その仕草はくすぐったいが気に入っている。そのままイゼルの小さな手が彼の前に差し出されて、前を指し示したので、そっちへ進めということなのだろうと解釈した。
足を進めながら、そういえば今の自分は馬のようなものだと思ってみる。乗馬するように扱われてもおかしくないのだと今更ながら考えて、イゼルもやりにくかろうと思う。たしか進むときには腹を軽く蹴るとか、そんな感じだったはずだ。イゼルくらいの小さな人間に腹を蹴られようとどうということはないのだし、そうしてもいいのに。
そういえばそれでいくと、自分は鞍も手綱もない裸馬だ。よく乗れるなあ、などと感心すらしてしまう。なるべく振動を少なく、快適に乗れるようにしてあげたいところだが自分の背に乗ったことなどないからわからない。
考え考え歩いているうちに、その日は暮れていった。
それほど森からは進めなかったようにも感じる。あの大怪我から一月もしないうちに旅に出ようというのだから、きっとイゼルは急いでいるのだろう。ちょっと申し訳ない。
心持ちしょんぼりとしていると、ひらりと降りたイゼルがサヤカの前へ回ってきた。
「すまない、疲れたか?」
(ううん、ちっとも)
首を横に振って答える。さすがに長時間人間を背に乗せたことなどなかったので不安だったが、やはりイゼルひとりごとき大した重さではなかった。
「そうか? お前の足は速いな」
(励ましているの?)
あまり進めなかったようで落ち込んでいるのに気づいたのだろうか。そう思ったが、イゼルはそんなつもりではないようだった。
「馬よりもはるかに速い……こんなに速いとは思わなかった」
周辺はゆるやかに木立が続き、あちこちに隆起した岩が連なっている。道らしきものは特にない。歩き方にばかり気を配っていたので考えていなかったが、すでに山に入っていたのかもしれない。
あの森に比べればまったくといっていいほど気配がないが、自然は満ちていた。
日も落ちたし、ここで野宿するのだろう。これまでの生活で野宿自体に慣れているため、そのまま横になることに何の違和感もなかった。
イゼルがあれこれと周辺を探索し、腕に木の枝を抱えて戻ってきたときも(必要なら言ってくれれば私が拾いにいったのに)と思うばかりでその必要性について理解してなかった。
枝の山を地面に築いたイゼルが何事かをそれに向かってつぶやき、魔力が発せられたと思った瞬間、ぽっと火がついた。
(あ、焚き火)
森では火を焚いたことなどなかったので、この世界に来て初めて火を見た。
(野宿といえば焚き火……そっかぁ、そうよね)
ぱちぱちと燃える火をなんだか感慨深く見つめてしまう。
「あ」
ふとイゼルが声をあげたのでなんだろうとそちらを見ると、サヤカの顔めがけて何かが飛んできた。
びたりと張り付いてから、転がるようにサヤカの頭の上へ乗る。きぃきぃと声を上げるので、ようやくそれが何かわかった。
(猿!?)
どの猿かはわからないが――というか見分けがついた試しがない――、どうやらイゼルの鞄の中に入り込んでいたらしい。
(イゼルについていくつもりだったの?)
それにしてはサヤカになついていてよくわからない。もしかしたら、イゼルが何も言わずに旅立とうとしたら教えてくれるつもりだったのかもしれない。
猿はわしゃわしゃとたてがみをひとしきり掻いて満足したのか、今度は蚤取りを始めた。
(帰らなくていいの? 森の外にはなにもないよ?)
今のところ危ない目には遭っていないが、とにかくイゼルが魔力といっていた気配が森の外にはかけらもない。あの森で暮らしていた猿にはつらかろう。しかしイゼルいわく馬より速い足だったらしいので、かなり森から離れてしまっているはずだ。
(……まあ、君も私が守ってあげればいいか)
仕方ないなあ、と鼻面でうりうりと押すと、蚤取りの邪魔をするなとばかりにぺしぺしと小さな手で叩かれた。可愛い。元々、猿たちのことは好きだった。サヤカの使えない手の代わりにあれこれやってくれるし、イゼルの看病でも世話になった。
(はぐれないように名前でもつけておく?)
そう思ったのは本当になんとなくで、サヤカはこの世界に“名前を交わす”契約があるのと同様、“名前をつける”契約があることなど知らなかった。
(猿……サル……はあんまりかしら。サリューとかにしておけばそれっぽいかも。よし、君はサリューだ)
そうして名付けると、イゼルと名乗られたときと同じように、猿の体から魔力がたちのぼり、それがサヤカの体の中に飲み込まれた。
きぃきぃと猿がうなずいてたてがみに頬をすりよせた。適当な名前ではあるが気に入ったようだ、とサヤカは目を細める。
ふとイゼルを見ると、興味深そうにこちらを見ていた。
「シーオウが縛られるか。さすがだな」
(しーおう? 縛られるってなに?)
首をかしげると、イゼルが苦笑する。
「なんでもない。……それよりサヤは何を食べる?」
どうやらイゼルは食事の支度をしようとしているらしい。
気持ちはありがたいが、この辺に魔力のあるものはなさそうだったので、そういう意味では食事にならないだろう。とりあえずイゼルには首を横に振っておいた。
「やはり普通の食事はできないか」
イゼルは鞄の中を探り、何か砂利のようなものを手のひらにゆるくつかんで差し出してきた。よく見るとそれは色とりどりの水晶か宝石の粒のようなもので、一粒一粒から魔力の気配がする。そのすべてを寄せ集めても森の水と同じくらいの魔力だろうが、森の外でこれだけの気配があるとは思わなくて驚いた。
「誘爆用の魔石しか持ち歩いていなくてな……こんなものしかなくて悪いが」
(これを食べていいの?)
手のひらを覗き込むように頭を動かし、魔力の気配をたどるように目を閉じる。匂いを嗅ぐような感覚で、気配を吸い込むとほんの一瞬だった。目を開けるとイゼルの手の上でそれは完全に砂に変わっていた。
「少なくてすまないな」
(全然。むしろ嬉しい!)
ありがとう、という気持ちを込めて、いつも動物たちにしていたようにイゼルの額に鼻面を当てて魔力を分け与える。
顔を離すと、イゼルが目を丸くしていた。
(なに? もっといる?)
もう一度与えてみようとすると、それより先にはっしと顔を捕まれた。
「俺はそこまで弱っていないから、気にするな」
(うん?)