BORDERLINE
片腕は、と聞いた。
彼は「あげた」とだけ答えた。
下半身を海に呑まれたまま見上げてきた瞳は何も知らない子供の様だった。
だからか警戒するには馬鹿らしくって「何だそりゃ」と空気を震わせ笑うと彼もきれいに笑った。
陸に生きる自分とは明らかに違ったけれど、全身ずぶ濡れの片腕をなくした人間を無視できる訳もない。
「まぁ、来いよ」
肘から欠けた右腕も海の水に溶けている。傷口に海水が染みる痛みを想像してしまい顔を歪ませながら彼の両脇に手を入れザバリと引き上げた。
そして呻く彼をくるりと仰向けにすると身体が冷えている所為で、顔も力なく垂れている指先もひどく白かった。
月を隠していた雲が退いていく。幕が上がっていく舞台を見る様な高揚を喉で塞き止めながら、明らかになる彼の顔。
どこまでも純潔を気取る今日の月を背に、青ざめ震える彼の顔は痛みに歪んでいて、目の前で指を鳴らされた様に目が醒めた。
ズルリズルリと彼の足を海から取り返せば途端に砂浜に広がって染み入る海水の跡と人間の二本の足がそこにはあって。
「まぁ…人魚じゃないよな」
そんな昔の寓話を記憶の棚から引っ張り出してくる程彼の存在は異質であった。
彼を背負って数時間後にはまた人の声が沸きあがる水辺を離れる。水を吸った彼の服が背中に張り付き全身に広がっていく。
それにぶるりと身体を震えさせ思っていたより彼が冷えていることに焦りを感じ、ずしりと沈む砂に足を取られながら家に急いだ。
自分を見ない事に妬いてしまったのか月が早々に雲に隠れていく。
月の光で深い紺色に見えていた果てない海も黒に染まり、ザザンと波音さえしなければそこにある事さえ気づけない。
そんな闇を背負いながら進む彼の足下に広がる砂浜は滴る海水と重たい足跡が残り、海から陸へ続くそれは奇妙な証であった。
人によっては顔を顰めたかも知れない。
海と陸が意識と歴史によって断絶されていた、そんな国の小さな港町のある夜、片腕の欠けた男は海からやって来た。
BORDERLINE
終わり。
こんな話を書きたい。
作品名:BORDERLINE 作家名:鶴川薫