彼との距離は37センチ
雨がざあざあと降っている。
強い雨足の中、あたしは彼と並んで歩いている。
大きめの傘は、ひとつだけでも、ふたりの身体をしっかり雨からカバーしている。
けれど、あたしの心の中はどしゃ降りだ。それでもってイヤになるくらいびしょ濡れだ。
だって、あたしは傘を差していない。
いつも傘を差すのは、隣を歩いている彼の役割。
彼と37センチも距離が離れているだけで、あたしはこうもセンチメンタルになるんだから。
『彼との距離は37センチ』
6限目の授業が終わった教室は、これ以上授業がないのを歓喜するかのようにどっと騒がしくなる。みんな帰ろうと荷物をまとめたり、部活の準備をしたりと慌ただしい。
「あっかねー」
友達の千佳も同じ。授業が終わったら即あたしの下に駆け寄ってくる。きっと放課後どこかに遊びに行こうとでも誘うつもりなんだろう。
「あんた今日もかわいいねえ」
「わーっ。っていうか、もう今日終わるじゃんか」
あたしの髪をわしゃわしゃといじくるのも、もう日課のようなもの。くすぐったくて気持ちいいけど、髪がぼさぼさになるから、あんまり強くしないでほしいのは内緒だ。
「いいじゃん、だってあんた小動物みたいなんだもん」
「……ひどい」
苦笑いしながら返事をする。
愛想笑いに見えるだろうけど、実際、あたしは小動物って言われるのがあまり好きじゃない。
そりゃかわいいって言われるのは嬉しいけどさ。
あたしが小動物と言われるのは、クラスの中で1番、しかも群を抜いて背が低いからだ。
祭木あかね、17歳。身長148センチ。おかげでよく小学高学年かと間違われること多々。
……なりたくてこんな身長になったんじゃないのに。
今までの人生でも、背が低いことを散々からかわれてきた。それはかわいいと言われる場合もあったけど、あたしは何も嬉しくない。
戸棚のおやつも取れないし、バスケのシュートはしにくいし、服も小さめのお店に行かないとサイズが合わない。
ちょっと髪にアイロンをかけてふわふわにしてみたら、「トイプードルみたい!」と言われて頭を撫でられる。嬉しいような悲しいような。
でも、みんなが思っているほど、小さいのって得じゃないんだよ。
それなのに、はあ。
「で、どしたの?」
「あーそうそう。今日遊びに行こうよ。前に言ってたクレープ屋」
やっぱり当たった。あたしは肩をすくめた。
「ごめん、今日用事あるんだ」
「えー。行こうよー」
「ダメです」
「う、残念。そっか、仕方ないねえ」
今度絶対行こうね、と言って千佳は去っていく。
ほんとごめん、あたしには大事な用事があるんだ。
あたしは鞄の中を覗き込んで、ちゃんとアレが入っていることを確認した。
◆
実は、用事というのは、これといってなかったりする。
いや、あるといえばあるんだけど、ないといえばない。これはあたしにとって、大事な用事というだけなのだ。
あたしは体育館の外入り口の階段に座り込んでいた。
中からは、だん、だん、とバスケットボールが弾んでいる音が聞こえる。他にもバドミントンのラケットを勢いよく振る音とか、運動部の男子どもの掛け声とか。とにかくこの時間の体育館は活気に包まれている。
グラウンドでも、陸上部の人たちが準備運動をしていたり、サッカー部が練習の用意をしていたり。あたしはひとり座ってていいんだろうか? と疑問に思ってしまう。
けどいいんだ。あたしには正当な理由がある。
「カピバラぁー!!」
体育館から威勢のいい男子の声が聞こえてくる。いかつい声でカピバラなんて言っているのを聞いていると、笑いが堪えきれない。
あたしは体育館の方にちらっと顔を向ける。
男子バレー部がスパイクを連続で取る練習をしている。間髪なく放たれる高速のスパイク。……鬼だ。
それをレシーブする側に回っているのが、桂太だ。
甲斐原桂太はあたしの昔からの友達。身長185センチ。名字と朴訥でマイペースな性格をもじって、カピバラと呼ばれている。だからさっき「カピバラ」と声を掛けられていたのは桂太だ。
部活でそれはどうなの、って気もする。けど、当人はそんな気にしていない(むしろ気に入ってる?)みたいだったから、別にあたしは口を挟まない。
放たれる高速のスパイク。
……桂太は、拾えていない。
何回も、何回も。ちゃんとできている方が珍しいくらいに。
先輩たちの罵声が飛ぶ。さすがに茶化す雰囲気でもなくなったのか、あだ名じゃなくて甲斐原の名字で呼ばれた。
桂太は額の汗を拭って、スパイクを待ち構える。
あれは本当に桂太なんだろうか。桂太はバレーが上手い。先輩たちはまだまだいるのに、2年でひとりだけレギュラーとして試合に出ることもある。バレー部のホープ、次期部長、そんな声もある。カピバラなんて愛称で呼ばれるのが許されるのも、桂太に実力があるからだ。
そんな桂太とは思えない凡ミスばかり。先輩たちもあまりのひどさに、ついに「1回下がれ」と宣告した。
桂太はその場から動こうとしなかったけど、少しして、無言でコートから離れた。
あたしは思わず声をかけようとして立ち上がった。
不意に、ドア越しに桂太と目が合う。
桂太は、すぐに目を逸らした。
◆
この日は桂太の誕生日だった。
あたしは頑張っている桂太のために、新しいシューズをプレゼントしようと思っていた。
箱が大きいから、カバンに入れてもばればれかなと思っていたけど、桂太は何も触れなかった。
いつも桂太は言葉が少ないけど、今日の無言はとても胸が痛かった。
今バレーに触れるものをあげても、桂太には辛いだけだろうから。
雨がざあざあと降っている。
あたしは桂太が差す傘の中に入って、一緒に歩いている。ふたりとも何も喋らなくて、雨の音しか聞こえない。
あたしは声をかけるタイミングを何度も何度も見つけては、結局声をかけられなかった。
桂太はいつでも、こんな時でも傘を差してくれている。いつもより足早な気がするし、無言が棘が刺さるみたいにちくちくするけど、やっぱり優しい。
「ねえ」
一度だけ声をかけてみる。桂太は何も言わずにちらっとあたしの方を見た。あんまり表情が顔に出ない桂太だけど、今日はやけに暗かった。
あたしが何も言えないでいると、桂太は顔の位置を元に戻した。
代わりに傘を差してあげたい。せめて桂太を支えてあげたい。
けど、あたしは148センチで、桂太は185センチ。人間の腕の長さは身長と同じくらいあるっていうけど、あたしと桂太じゃ身長差がありすぎて、傘を差すこっちが辛くなる。
一回だけやったことはある。そうしたら数分もしない内に腕がぷるぷると震え出してダメだった。だから桂太も分かっていっつも傘を差してくれているんだ。
あたしと桂太の間には、短いのに遠い隙間が開いている。
結局、その日はろくな会話もせずに家まで送り届けてもらった。
あたしはダメな子だ。
作品名:彼との距離は37センチ 作家名:平坂茶亭