小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

いなくなった人とヒールの先

INDEX|1ページ/1ページ|

 

それはとてもつめたい夜で、ぴかぴかに磨いたナイフのような月がぽつんと浮かんでいた。わたしはきょうも労基法?なにそれおいしいの?とでも言わんばかりの会社で基準以上に働かされて、それはもう、半年以上もつづいている毎日のことなのだけど、今日もその一部になってしまったことに、また苛立ちと諦めの溜息をつく。息は白く、夜にとけた。坂の上の基地もとい自宅アパートまであと数百メートル。右手にはもうだいぶ冷めたコンビニ弁当とビールがはいったコンビニ袋。いつもだ、いつものことだ。ただの日常だ。
もしかしたらあの角に痴漢がいるかもしれないし、どうもうな犬もいるかもしれないし、あるいは、とてもすてきな、王子様のようなひと(むかいおさむ似だといい)が倒れているかもしれないけど、それでも、そんなことは、わたしには起こらない。そのはずなのに、どうしてか今まで日常にくみこまれていた”恋人”がきえてしまったので、もしかしたら、なんて思う。

そう、文字通りきえたのだ。別れたとか自然消滅とかでなくて、一週間前に、忽然と、消えたのだ。今月にはいって五日目で、連絡がとれなくなって(この電話番号は現在使われておりませんというメッセージを耳にして)、あまりにおかしいと、不審をもって合鍵で彼のマンションの部屋をあけた。まさにもぬけの殻ってやつだった。
朝の支度をしていたんだろう、幸いにガスはとまっていたけど、コンロの上にはやかんがあって、そのとなりのシンクの上にかわいたインスタントコーヒーがはいった、彼のお気に入りの白いマグカップがあって、テーブルには白いお皿(これはコンビニのキャンペーンでもらったりらっくまのやつだ。ふたりでたくさん、パンをたべた)の上に焼かれたパン、マーガリン、こげたベーコン。
ふつうの、朝ごはんの支度だ。

それでもあのひとは、それを置き去りにして、スーツの上着もハンガーにかけたまま、そのまま消えたのだ。あわてて実家にも職場にもそれとなく連絡したけれど
、やっぱりいなくって、職場にいたってはなんと辞職さえしていて、それは今月のついたちのことだった。

先月のおわりはなにをしてたっけ?
確かわたしたちは、お互いにいそがしくって、なかなかゆっくりあえなくって、ほんの隙間の、おうちデート(インわたしの家)の時間に、映画館では見逃した映画のDVDを、ふたりで布団にくるまって見て、寝て、すこしだけセックスをした。それからできあいのチャーハンを食べて、世界がどれだけおおきいかの話をした。彼は世界はお風呂のように深いと言った。そうしてわたしが思い出したかのようにお風呂にはいって、出てきたら、彼はわたし宛てにたまたま来ていた、旅行情報のダイレクトメールを熱心にみつめていた。

そうしてレウカかあ、と呟いたので、レウカ?ときいたら、レウカ岬とかえってきた。どこなの?ときいても、彼はそれには答えなくって、ただただじっと、ダイレクトメールを見つめたままで、それでもわたしはそれすら大したことじゃないとおもっていたのだ。ただの気まぐれだろうとおもって、そうして呑気にビールをのみながら、つぎ、お風呂はいってよ、なんて言ったりした。

あとで例のダイレクトメールをみようとしたら、おそらく彼が持ち出したんだろう、見つからなかったのでネットで調べたら、レウカはイタリアの、ヒールの先にある街らしい。ふかい青をした、底まで透明な海をのぞむ海岸がつづく街。どんなところかは、ネットの写真でしかわからないけど、なんだか世界の果てのようだなあとおもった。そしてきっと、底抜けに気楽な街なんじゃ、ないかなあ。労基法もコンビニ弁当もない街。日常じゃない、果ての街。こんなにさみしい月だって、きっとないんだ。


彼がどこにいったかは、やっぱりわからなくて、わたしは最初の3日は不安とさみしさで泣きに泣いたのだけど、それでも、だんだん、でもまだ死んでるわけじゃあないんだしなあ、と思えてきて(生きている確信だけは、なんだかあったのだ)じゃあ、また会えるだろうなあとなり、まあそのうちひょっこり帰ってくるんだろうという結論にたどり着いた。いままでの日常みたいに、夕方の6時過ぎに、夕ご飯をいっしょに食べないか、だなんて、メールがくるんだ。
わたしはあんまり彼がいないことを日常にはしたくなかったので、いまを非日常だ、とおもうことにした。角をまがったところで、痴漢も犬も、王子様も、もちろん彼だっていなかったけれど、それでも今は日常に非ず、なのだ。
アパートの階段をのぼる。今日もいちにち倒れそうなほど働かされて、今日もまたコンビニ弁当買っちゃって、あとはただ、あのひとが帰ってくれば、万事が良い。カツンとヒールの先っぽが、階段にあたって、せまい廊下にひびいた。
あと少しで、登りきれる。