小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
柚本ユズコ
柚本ユズコ
novelistID. 20851
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

無題

INDEX|1ページ/1ページ|

 
思えば、一人暮らしを始めてからというもの、「いってきます」や「ただいま」を口にしなくなった。自分以外に誰もいないのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど。

窓から沈みかけの夕日が見える。いや、正確には夕日が沈みかけた外の景色が見える。僕は黒のハイネックに薄い柄のTシャツを重ね、ジーパンを履いた。上着は悩んだけれど、たぶんいらないだろう。どうせ目と鼻の先だ。財布とカードケースを鞄に放り込み、部屋の電気を消すと、部屋がうっすらとセピアに染まった。僕は一握りの拙い勇気を振り絞って、玄関のドアを開ける。むん、と湿気た空気が僕を包んだ。ドアを閉めて鍵をかけながら、思った以上に外が暖かいことに驚く。雨上がりの澱んだ空に、うっすらとオレンジが染み込んでいる。こんな当たり前のことさえも、なぜか僕には驚きだった。

階段を駆け下りて、履き心地の悪いスニーカーで歩きながら、ぼんやりと辺りを見回す。近所の神社の桜が葉桜へと変わっていて、昨夜見たアニメを思い出した。そこからは何も頭に浮かばないほど変わらない道のりで、僕は目的地のコンビニへと急ぐ。このスニーカーの履き心地は最悪だ、と改めて後悔した。
コンビニに入りパンを二つとプリンを一つ、そして夕飯の弁当を一つ抱え、レジへ置いた。アルバイトであろう男性店員は間の抜けた声で商品の値段を読み上げながら会計を促し、僕はそれをすませて外へ出た。また、あの湿気た空気が僕を包む。雨上がりのアスファルトのにおいはわりと好きだ。
来た道を引き返す。僕の用事はこれだけだ。コンビニの前では中学生くらいの男子が三人で群れていた。ふと、さっきよりもずいぶんと暗くなっていることに気付く。いつの間にか夕日は沈みきってしまったようだ。

同じ道でも、行きと帰りでは見えるものが違う。僕は桜ではなく、神社のそばにある公園になんとなく心をとらわれて、植木の隙間からそこへ足を踏み入れた。ブランコ、滑り台、なんだかよくわからない遊具が二つ。身の丈に合わないそれらがとても懐かしく思えて、センチメンタルを気取ってみたりした。湿った土の地面にはいびつな円が描かれていて、中も外も足跡だらけだ。きっと誰か、子供が遊んだ跡なのだろう。僕はその上を通り、滑り台に登る。途中、くぐるところが僕には小さかったけれど、なんとか登ることができた。
その公園の中で一番高い場所から、辺りを見渡す。濃いブルーグレーの空の下で、湿った空気を思い切り吸い込み、すっかり暗くなったこの小さな公園を占拠したような気持ちになって、優越感に浸った。
満足した僕は滑り台をすべって降りて、入ったときとは違う植木の隙間から公園を出た。そこは神社の鳥居の少し奥にあたる場所で、散った桜の花びらが絨毯のように敷きつめられている。ゆっくりと足を進めて鳥居をくぐり、束の間のセンチメンタル気取りを終えて帰路へついた。

階段を駆け上がり、自分の部屋の前で立ち止まる。ただ一枚のドアが、異次元を繋ぐものにすら思えた。鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。このドアを開けたら、僕はまたいつもの僕に戻っているのだろう。ゆっくりとドアを開けて、部屋に入る。

「ただいま。」
作品名:無題 作家名:柚本ユズコ