チョコレート
しかし今のおれには全くといっていいほど無関係な行事。
初々しいカップルや若い男女が胸を高鳴らせる日。
如月中旬。まだ春と呼ぶには寒い2月14日、バレンタインデー。
もうずっと昔の話になるが、おれも学生時代は今日という日を楽しんでいた。
友人とチョコレートを貰った数で競ったり、好きな女子から貰えるか待ってみたり。
バレンタインデー当日、男子生徒は皆、下駄箱や机の中を気にした。
勿論おれも例外ではない。
いつもなら男同士でつるんで歩くのに、その日だけは互いに干渉はしなかったり、
もし、一緒にいたとしても、ラブチャンスが巡ってくれば気を利かせて二人きりにしてやった日である。
おれにとって、そんな懐かしいイベントであって。
今はおれも一人の女性と結婚し、早十数年。
反抗期に入った所為か全くつかめない、喧嘩の多い高校生の息子と、今年中学にあがる娘を持つ立派な父親なのだ。
だから、そう。 おれには無縁な行事なのだ。
「バレンタイン」なんて存在は忘れていた…といえば嘘になる。
街に出ればバレンタイン一色なのだから、忘れるわけがない。
しかし今日はおれにとってはただの平日なのだ。これから会社に出勤しなければならない。
娘は珍しく早起きをし、朝からそわそわとしていて、何回も鏡を覗き込んで髪をいじっている。
そして時々冷蔵庫の中を確認するように覗き込む。
息子もいつにもなく早く家を出ていった。今晩、夕食は要らないらしい。
おれはいつもの時間にいつも通り出て、いつもの電車にのる。
おれには無縁な行事なのだから、そう。いつも通りに。
テレビをみると、星座占いをやっていた。
「もう、そんな時間か…」
と、一人つぶやいてから、おれは自分の星座の運勢を確認すると、コートやマフラーを身につける。
そうして妻の用意してくれた鞄をもち、玄関へ行く。
「じゃ、行って来ます。」
見送りに現れない妻と娘に対し、大きな声でそう言うとおれは靴をはく。
玄関のドアを開いて一歩外へ踏み出そうとすると、娘が奥からおれを呼んだ。
お父さん、ちょっと待って と。
そうして待ってみると、娘がスリッパをぱたぱたと言わせながら廊下を走ってきた。
「はい、これ。」
差し出されたのは赤い箱のチョコレート菓子。
「お母さんとあたしからね。お昼休みにでも食べて。
じゃあ、いってらっしゃい。」
おれは無言でそれを受け取り、コートのポケットにつっこむとそそくさと家を出た。
娘にこの顔のにやけ具合を見られぬように。
多分、今日会社では女子社員から男子社員に義理チョコが配られるだろう。
おれにもきっとフランスとかどこだかのチョコレートが与えられるだろう。
おれにその味はわからない。
例え有名な菓子屋の菓子だろうがなんだろうが、やはり娘に手渡されたチョコレートにはどれも勝てないと思う。
例え、たった100円程度でしかないにしても。