幸せのカタチ
幸せであることになれてはいけない。
それはわたしの好きな彼の口癖だった。
その口癖は、特にこれといって変わり映えのない生活を送っている中で幾度も言われた。
あの頃のわたしにはその意味がよくわからなくて、「どうして、幸せに慣れたらいけないの?」とよく聞いた。
けれども彼はいつもただ黙って微笑むだけで、何も答えてはくれなかった。
今思えば、彼の言葉は全くその通りであることがわかる。
わたしと彼は駅前にあるとても小さな公園が好きだった。
公園の真ん中には噴水があり、その噴水を囲むように円上にベンチが設置してある。
わたしと彼はその公園がとても好きだった。
出勤前にその場所で少し話をしたり、仕事を終えてから夕食を一緒に食べにいくのに待ち合わせたり。
デートの日の夕方はデートの締めの場所として、よく行った。
まだ日が暮れる前の公園には殆ど人の気配が無くて、公園にいるのはふたりだけというのも多かった。
夕方の公園はしばしば私たちをふたりだけの世界に連れてってくれた。
辺りに人影はないかちゃんと目を配り、誰もいないようであればキスをした。
キスのパターンはだいたいいつも決まっていた。
はじめは唇と唇を触れ合わせるだけのあいさつ。
そしてどちらかが遠慮がちに、相手の唇を唇で挟み込むようにして、合図。
最終的にはどちらからともなく、唇を割って、熱を帯びた舌を絡ませあうキスになる。
そんな濃厚なキスをしている内に、だれかが公園にやってきて、急いで離れた経験は少なくもない。
そんな公園は、わたしと彼のたくさんの思い出が詰まっている場所だった。
彼と別れたのは今から一年ほど前の話。
別れを切り出してきたのは彼の方だった。
原因は分かりやすく言えば、彼の転勤の所為だった。
彼が行く直前、やはりあの公園で話をした。
「ずっと、話そうと思っていたんだ。
僕は来月から大阪に転勤になるんだ。
半年の予定だけど、もしかしたら延びる可能性だってある。
だから…別れよう。」
「いやよ、そんなの。だって、大阪でしょう?そんなの遠くないわ。」
「でもな。慣れない土地で仕事をするわけだから、君に会う余裕はないと思うんだ。」
そういって、彼は大きなため息をひとつ、ついた。
「会えなきゃ、付き合ってる意味がないとでもいうの?」
「…。」
「わたし、待っていたいの。…ダメかな?」
「…。」
「質問を変えるわ。」
そういって、彼の頬を両手で包み、彼の目を見つめて真剣な気持ちで、聞く。
「わたしのこと、好き?」
「好きだ。
好きだから、君の気持ちを縛り付けちゃいけないと思って、君を自由にしようとしているんだ。」
彼の目もまた真剣だった。
わたしは彼の頬を包み込んでいた手をそっと解くと、彼のからだに抱きついた。
「…じゃあ、待たせてよ。お願いだから。」
結局は別れる形になったが、連絡はとることになった。
彼が行ってしまってからの時間は酷くつまらなかった。
彼は仕事が忙しいようで、あまり連絡を取らなかったし、たまにとっても短いメールを1,2度往復させるだけだった。
彼が転勤して、あっという間に季節が一巡りした。
もう公園の近くの桜の木がもう満開になっていて、丁度彼と別れた日みたいだった。
そんな春の訪れの中、彼から一通のメールが入った。
来月、そっちに戻ります、と。
五月晴れの清々しい天気の下。
わたしは一人であの公園に脚を向けた。
いつもふたりで座っていたあの場所に、ひとり腰を下ろした。
一年前までの記憶が、あの幸せが、頭の中で蘇る。
彼がいない日々はわたしにあの言葉の意味を教えてくれた。
彼が側にいることで私はどれだけ満たされていたか。
彼がキスしてくれるだけで私はどれだけ幸せになれていたか、を。
幸せに麻痺していたのかもしれないと、いまさらながらに思う。
人は今ある幸せに慣れてしまい、その内に自分が持っている幸せに気付かなくなってしまい、どんどんと幸せに対して鈍くなっていく。
鈍くなって幸せが何かを見失ってしまう。
だから、相手に求めすぎてしまう。自分を見失ってしまう。
本当は忘れちゃいけないのに。
今、自分は幸せのまっただ中にいるんだっていうこと。
今なら彼の言葉を理解できる。
彼が何を言いたかったのか、彼がなにを教えてくれたのか、今なら解る。
わたしは、たった一人の人がいれば、他の誰よりも幸せになれることができる。
たった一人…彼がいれば。
ベンチで物思いに耽っている間に、いつの間にか空の色が水色から段々と赤色に染まっていた。そろそろ、日が沈む。
駅の方からは、ホームのアナウンスが聞こえる。
まもなく3番線に電車が到着します、ご注意ください…っていうアナウンス。
わたしは時計をみて、確信する。
きっとそのうち、やってくるということ。
私は喜びに浸る。目を閉じてもうすぐやってくる彼を思い浮かべる。
それさえも「幸せ」の時間だと思える。
彼に逢えたら先ず何て言おう?
そう考えていると、後ろから足音が聞こえてきた。
そして、近づいてきた足音の主はこう言った。
「ああ、変わってないな。やっぱり人は一年やそこらじゃ変わらないものなのか?」
わたしは振り向きもせずに、それが彼の声だと認識する。
心は今にも張り裂けそうなくらい、久しぶりの彼の肉声にドキドキと高鳴っている。
気のせいか頬が熱い。
それを悟られぬよう、わたしはすこし俯く。
そして歩み寄ってきた彼は、当たり前のようにわたしの隣に腰を下ろした。
わたしは俯いたまま、目をあけることができなかった。
そして、やっとの思いで、一言言った。
「ええ、変わってないわよ。あなたに対する気持ちも、わたしの幸せのかたちも。」
顔をあげると、彼が頬をほんのり赤く染めている。
彼の姿をみて、人は一年やそこらじゃ変わらないということを、実感する。
「なによ、ほっぺた赤くして。」
「いや、きみこそ、林檎みたいな頬してるよ。」
そしてわたしたちはどちらからともなく抱きしめあって、少し笑った。
心地よい心音を共感してから、一年という間なんて無かったように、キスをする。
それがわたしの幸せだということを、頭でひとつひとつ認識しながら。