イツカ、セカイヲ
————君の隣に居られる世界が私には必要だったんだ。
だから、私は壊すよ。貴方の為にも。私の為にも。
この、世界を。
ベランダに掛けてあった洗濯物が突風に煽られ吹き飛び、遥か彼方の陸地に落ちていく。
これを拾おうとしたらきっと私は息絶えるのだろう、
クルクルと狂い咲きの桜の花弁が泥土に塗れるのと同じ様に、
軸足を失った無様なバレリーナの様に
ふらふらと頼りなく宙を舞い、やがては地面に木偶人形の様に抗いもせず叩きつけられる。
————それもそれで、面白いのかも知れない。
私はそっと鉄製の重厚そうな手すりに足をかけた。
自らが高所恐怖症だと言う事も忘れ、両手を目を瞑り震えながら平均台の要領で腕を肩の高さに上げる。
そう。これは平均台。
夢と現の間の、地獄と現世の間の平均台。嗚呼、なんておもしろいのだろう!
ーー此処は大都東京。
人々は自らの私事に、責務に翻弄され、私が高層マンションの二五階から飛び降りようとしている事なんて誰も気がつかない。
それで良い。私はこうして、泡のように消えていきたい。
冬だと言うのに何故だか汗にまみれた足で一歩、また一歩と進む。平均台に、終わりが見えた。
この平均台を渡りきってしまったら、私はどちらの世界の住人となるのだろう。
今の世界にこのまま滞在し続けるのは途轍もなく苦痛だったし、地獄に行くのも何となく予想通りの展開でつまらないと私は笑みを漏らした。
私は結局何処に行きたいのだろう。地獄にも、今の世界にも居たくないのなら、何処に行けば良いのだ?
そう考え、足を止めた刹那。
突然の強風が、私の体を攫った。
体は主軸を失い、私は膝から崩れ落ちる様にして宙に放り出される。くるくる、くるくる。視界が目まぐるしく回って、私は咄嗟に右手で手すりを掴もうとした。だが、その抵抗も虚しく、
悲鳴をあげる暇さえも無かった。
嗚呼、こうして私はこの短い人生に、幕を下ろしーーー———
「そうはさせませんよ」
「え?」
彼は所謂、お姫様抱っこの様な体勢で、私を抱き留めた。
第1話 twenty four
「どうして・・!」
私はそれだけ言い放つと彼から身を離した。
・・其処は私のベランダと何ら変わらないベランダだった。違う所と言ったら金木犀のプランターが置いてあるところくらいだろうか。
彼は偶然ベランダに居て、私を抱き留めて助けた、と?有り得ない。其処まで重い方じゃ無いけれども、かなり加速がついているだろうから到底無傷で救助出来るなんて事ある筈が無い。
「助けてあげたのに、どうして、は無いんじゃないですか。貴方を救いたいからに決まっているでしょう?」
「わ、私は助けて欲しいだなんて頼んでない!此処は何階なの!?」
「八階。——正確に言うと827号室ですね」
25階から8階に落ちた私が気絶さえせずに息をしていて、抱き留めた彼も血を流す事無く私を抱えられた・・?
嘘だ、嘘だ。・・いくら何でも、こんな展開有り得ない。
・・・それに今、何て言った?
「此処は・・何号室ですか?」
「嗚呼、827号室ですよ、此処」
一瞬で血の気が引いた。
827号室。六年前、此処で入居者の女性が夫に浮気され首をつって自殺した。
当時小学生だった彼女の娘も後を追おうとして大怪我を負い病院に搬送された後、医者が、彼女が母親に陰惨な虐待を受けていた事を表明し大騒ぎになったのだ。
その後、こんな事件をマスコミが放っておく事は無く、連日怪奇番組のリポーターは霊媒師やらを連日連夜連れ込んでは怪しげなお祓いをさせていたが、遂に生放送中に霊媒師が常軌を逸脱すると言うとんでもない放送事故が発生し、この事件ごと、この部屋ごと闇に葬られ、この部屋は近所の悪戯っ子達も寄り付かない部屋として有名になっていた。
「じゃあ・・貴方は、何で此処に居るの」
間違いない。金木犀のプランターも事件の際に報道されていたものと同じ、ほら、綺麗に咲いている・・て・・え・・?
—————どうして誰も手入れしていないのに金木犀が咲いているの?
「や、やだ・・嫌だ、怖い」
腐臭さえも漂ってくる気がして、私は男の手をはね除ける。
もしかしてこれは悪夢なんじゃ無いだろうか。本当の私はもう死んでいて、これは閻魔大王か何かが見せた悪夢。
・・あれ、地獄には閻魔大王って居るっけ?それともルシフェル?もうどっちでも良いから、悪い夢なら早く醒めて・・!
扉を開き逃げようとするも叶わない。鍵が何故か開かない。半狂乱になってがちゃがちゃと引っ張っていると男が近づいて来た。
「ねえ貴方、世界を革命しませんか」肩に手をかけられる。ひんやりとした死人の様な手。眩暈がした
「お願いもうやめて!」
声が枯れるまで叫んで窓を叩く。誰か、誰か助けて!此奴はきっと彼女の夫の幽霊か何かなのよ、そうに違い無い!最も彼女の夫が死んだ話なんて聞いた事が無いけれど・・!
「そんなに怖がらなくて良いじゃ無いですか。・・何ならお茶して行きます?」
「行かないから!地獄に引きずり込まれるでしょう!私まだ生きたいのよ、どいてちょうだい此処から出して!」
そうすると彼は首を傾げ、何を思ったのか紅茶のティーバッグを古風な埃だらけのローブの中から出した。・・随分と風変わりな容貌で、こんな人を夫にもつ人の気もしれないし、こんな人と浮気したがる女の気もしれない。
「え・・?地獄って?だって此処マンションの中じゃないですか?え?あ、管理人さんに連絡しないで下さいよ。鍵は今開けますから」
「は・・?」
随分所帯じみた幽霊だこと。管理人の心配までしている。私が仮に管理人にこの部屋は幽霊が出ると連絡したからってどうにかなるわけでも無いだろう、寧ろ私が何故この部屋に入れたのか問い質されて此方が迷惑を被る。・・この人、もしかして、本当は・・
「ようこそ、我が家へ。・・とは言っても非合法の我が家ですが」
此奴は、もしかして・・。
扉が開く。嘗て殺人現場だった筈のその部屋には、何処かから拾ったぼろっちい段ボールやら布団やらが鎮座していた。
ぱくぱく、と私は口を動かし交互に彼とぼろい布団やら段ボールを見つめる。
埃だらけのローブ。「管理人に連絡しないで下さい」。非合法の我が家。この場所で起きた事件を知らない。見るからに貧乏そう。もしかしなくても、此奴は、本当に・・
「貴方、ホームレスなの・・」