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左手の真実【試し読み】

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サンプル2


■□■

その日は十六夜、月の満ち欠けに影響を受ける妖怪――玉藻はもちろん精神が高揚していたし、覇鬼も自分の血が沸き立つのを押さえられなかった。
鵺野が昼間にすこし厄介な悪霊と闘ったことも、その理由の一つであるだろう。
とにかく、いつもならば黙っている覇鬼は、左手からその巨躯を実体化させた。
怒髪天を衝くような灰白色の髪、岩のように厚く堅い胸板、鋲(リベツト)だらけの衣服――鵺野と完全に離れるとその左手は形を無くしてしまうので、その時に応じて必要なだけの妖力だけで、覇鬼はベッドの脇に現れた。
「どうした? 覇鬼。なにかあったのか?」
いまからベッドインしようとしてたはずの甘い空気は、一瞬にして雲を押しのけて現れた晴れ間のように霧散してしまう。
鵺野はまるで母親のような雰囲気をまとい、覇鬼の方に身体を向ける。対する覇鬼は、準備していたはずの言葉を見失い、ただ視線をさまよわす。一旦あげた腕をまた下げてみたり、言葉を出そうと開けた唇をつぐんでみたり。
――鵺野に、言いたいことがあったのに。あんなにも、あんなにも沢山言いたいことがあったというのに、いざその時になると一言も出てこない。早く何か言わなければと、気持ちばかりが逸り、焦る。
「ん? 大丈夫だぞ、ゆっくりで。待っているからな」
鵺野はにこりと微笑んで覇鬼を見守っている。なんて暖かく、優しく、慈愛に満ちた微笑みか。
眠鬼がいつか、『安らぎ』を感じたという暖かさは、こんな感じのものだろうか。
あのとき自分はその感情は危険だと感じたし、そう伝えもした。鬼として駄目になると。地獄の鬼はそんなことを感じる必要はない。
冷静に考えられるようになった今、そのときの自分の感情は妬みに近かったことを覇鬼は気付いていた。大切な、大事な妹を、違ういきものに変えてしまった人間という存在に対する妬み。そして、同時にこの人間、鵺野に対する特別な感情に――

覇鬼はそこでふっつりと緊張の糸が切れた気がした。迷わなくてもいいのだと見つめる、目の前の赤い瞳にめまいを起こしたように、ついに腕を伸ばして抱き寄せた。
「……!? 覇鬼、ちょっ…?」
「俺、は……鳴介、おれを……」
覇鬼の隆々とした腕の中にぎゅうっと抱き込められ、鵺野は身動きすらままならない。
「覇鬼、ちょっ……痛、い」
「す、済まない!」
鵺野が苦痛を訴えれば、慌てたようにぱっと戒めが解かれる。
「どうしたんだ、急に。……寂しくなったのか?」
鵺野が覇鬼を見上げて問えば、大きな形(なり)をした鬼は子供のようにかぶりを振る。
「う……鳴介、鳴介は、…俺のこと、好き、…か?」
「ああ、好きだ。眠鬼やお前と一緒に騒いでいると、なんか家族みたいな感じがしてさ。うん、凄く楽しくて大好きだよ」
おそるおそる口にした覇鬼の言葉に、鵺野はためらいなどみじんもなく、逆に何を当たり前のことを聴くんだ? と言いたげな返事をした。『大好き』とまで言われ、いつもならばここで覇鬼は破顔する。しかしこの時は実に複雑な、泣き笑いに落胆を刷いたように歪んだ笑いを見せる。
「家族…家族、か。…悪いが鳴介、俺は、お前のことは家族とは見ていない」
「え」
鵺野は思いがけない言葉に小さくとても傷ついた顔をする。覇鬼は「俺はお前を…」言いよどみ、そして再び抱きしめる。
「お前が、欲しい。だから――家族ではだめなんだ」