例え私がいなくても
投げつけられた剥きかけのみかんの汁がスーツの胸元に散った。みかんはずるずるとスーツから落ちてゆき、やがてぼたりとフローリングの床に醜く落ちた。
俺は体を屈めてそれを拾い上げ、諦観な思いで手の平の上の潰れたみかんを眺めた。
視線をあげる。みかんを投げつけてきた娘は、ぜえぜえと肩を上下させて、俺のことを殺意に満ちた目でねめつけていた。
ぐちゃぐちゃになったみかんを見下して、俺はただ、なぜだろう、と考えた。
「おまえなんか死んじまえ!」
怨嗟を吐きだした彼女は、だっと走り出して私の横をすり抜け、キッチンへ向かった。そのあとの行動を、俺は想像する。
娘は味噌汁の入った鍋をかき回す母親を押しのけて、自分の生みの親が倒れこみ鍋がひっくり返ることも厭わず、シンクから一番よく磨かれた包丁を取り出して、また戻ってくるだろう。
どたどたと足音が響き、女房の悲鳴が聞こえる。
娘はばたばたと慌ただしく俺の目前まで戻ってきて、両手で抱えた包丁の刃を、正しく俺に突きつけた。
「そんなもので人が殺せると思ってるのか」
「うるさいうるさい!全部、全部おまえが悪いんだ!」
「そうか」
俺は眉間を指でほぐして、唇を震わせた。
そうして、手に持ったみかんを握りつぶす。ばたばたとみかんの汁が指の隙間から落ちてフローリングを汚した。俺は再度、拳に力を入れ、それから大きく腕を振りかぶり、そのみかんを娘に投げつけた。
ぐちゃぐちゃになったそれが、彼女に向かって飛んだ。
きゃあ、と声がして娘は顔を覆った。その覆った手に、ぐちゃりと、みかんが当たった。
娘はぶるぶる震えながら、顔をひきつらせて醜く潰れたそれを見下した。それから喉を震わせ、金切り声をあげた。
女房がキッチンから駆けてきて、娘に飛びついた。包丁を取り上げ遠くへ投げ捨てると、その震える背を優しくさすった。そうして、俺に向かって呪いのような視線を飛ばす。
だから思った。
俺がこの家にいる意味とは。意味は。
俺は踵を返し、玄関まで戻ると路上でぴかぴかに磨いてもらった靴に足を突っ込んだ。女房が驚いた顔で後から追ってくるけれど、その手を払いのけ、俺は玄関のドアを開ける。
ただぐちゃりと、あのつぶれたみかんの感触だけが、手に残っていた。