かなりや
歌を忘れたカナリアは 後ろの山に棄てましょか いえいえ それはなりませぬ――
夢子のささやくように低く、小さな歌声は空気に触れた瞬間とろんと溶けて消えてゆく。端から端からこぼれては、次から次へと消えてゆく。まるで水面にぷくぷくと浮かぶ泡のように。ゆらゆらと体を揺らして、腰の後ろで指を組んで、川原をとんとん歩く姿はまるで小さな女の子のようだった。なんだか細くって、頼りない。
歌を忘れたカナリアは 背戸の小薮に埋けましょか いえいえ それはなりませぬ――
ちらちらと降る粉雪は、まるで塵のようだった。夢子の故郷では、雪は牡丹の花弁のように厚くてぼってりしていて、ふうわりふうわりと風に遊ばれるように降ってくる。
兄弟姉妹のいない夢子は、雪国の冷たい集合住宅の一室で、母と祖母、二人の女に挟まれて大きくなった。祖父はとうの昔に亡くなって、父は仕事で滅多に帰ってこない。滅多に会えないからいないのも同じで、夢子は父の顔を覚えるのにだいぶ時間がかかった。
学歴なんていらないから、それなりに勉強した後は結婚して、子供を産んで、育てて幸せになれと言い続けた祖母。たくさんきちんと勉強して、就職して、女一人でも立派に食べて行けといった母。夢子のほしいものなんてそっちのけでずっと板挟みになり続けていて、少しなのかたくさんなのかはわからないけれど、夢子の心はじくじくと痛んでいた。
要するに、精神病だ。引き絞られるような胸の痛み。止まらない涙。だましだまし大きくなって独り立ちまでしたけれど、いまだにずっと消えることがない。気の持ちよう、とかでどうにかなる段階は、とっくに超えているのに自分でも気づいていた。
歌を忘れたカナリアは 柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう――
だましだまし表に出て、それでも泣きながら苦しさに耐えていた夢子に手を差し伸べたのは、七住悠太だった。苦しいの、悲しいの、と泣く夢子を抱きしめて、口づけて、大丈夫だよ、俺がいるよ、とささやき続けた。苦しいよう、つらいよう、でいっぱいになった夢子にとって、それは初めてにも似た安らぎだった。本当はもっといっぱいあったはずなのに、苦しい日常に埋もれてわからなくなってしまった、おかしくなるほど焦がれた優しさだった。
惜しみなく注がれる優しさが嬉しくて、夢子は悠太にくっついた。毎日毎日、小鳥のように一緒にいて、忠犬のように尽くして、雌猫のように甘えた。生まれて初めて手に入れた両手放しの安らぎは、あっという間に夢子を虜にした。悠太の腕の中でとろとろにとろけて、少しずつ少しずつ元気になって、それでもやっぱり、つらいことがあっては昔を思い出しては苦しくて泣いて。そんなことを何度も繰り返しながら、一年、過ごした。そうして、ぽいっ、と捨てられた。
なんとなく、歯車がずれ始めたのには気づいていた。でも苦しいのもつらいのも良くなってきたし、泣き暮らすこともなくなったし、いつかうまくかみ合うと信じていた。
「いつまでも、俺のところで泣いてばかりで」
なじられて、はじめて気づいた。
「夢子といると、腹が立って悲しくなる」
ああもう、安らぎを得ていたのは私だけだったんだ。
小さくまあるくなった夢子を抱きしめて、保護して、優しい気持ちになっていた悠太はもういない。夢子はまったくいい方にしか変わっていなかったのに。おんなじことをずっと続けても、愛されるか嫌われるかは運なんだな、と小さく笑みをこぼした。
そんなに早く良くなるわけ、ないじゃない。えそれでもずっと、一緒にいてくれて、ずいぶんと元気に、普通の子のようになれたのに。
歌を忘れたカナリアは 象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌をおもいだす――
空気に溶ける歌声で川辺をとんとん歩きながら、カナリアが歌を思い出すまで待てなかった愚かでいとしい満月を思って、夢子はふんふんと歌った。