夏の風景
ぎらぎらと照りつける太陽のせいで、汗っかきの体質である俺は家に帰りつくまでにシャツをびちょびちょに濡らしてしまった。
毎年、毎年、「今年は例年より暑いでしよう」とかいうニュースキャスターを俺は心底、信じていない。夏なんてもんは、ただ暑いんだ。それに毎年だか、例年だかの差なんてない。ただ暑いんだよ!
玄関のドアを開けようと鍵をさしこんだとき妙だった。
鍵を抜いてドアノブに手を伸ばしたとき、勝手にドアのほうが開いてしまった。
「あなた、おかえりなさい」
「え、あっ」
ひんやりと家のなかから漏れだす冷気が俺の首のうなじを撫でるのに、俺は、まさにアホみたいに驚いて、息を呑む。
「あなた?」
妻が、ふがいない夫にたいして眼をぱちくりさせる。
「た、ただいま」
俺は、妻の顔を見て、いいかえした。
家のなかにあがると妻は、お気に入りのエプロン姿で夕飯の支度をしていた。
「今日は、素麺よ」
「ん、その前にビールっ」
俺は、妻に注文した。
「はいはい」
妻は笑って冷蔵庫からビールを取り出す。よく冷えたビールを飲んで、俺は、ほっと一息ついた。
「あー、そうだ。明日は休みだし、二人でごろごろするか?」
「なに、そのふがいないこと」
「だって、あちぃしさ」
「私、川にいきたいわ、それとも海とか、いいわね」
「絶対にだめだっ!」
俺は怒鳴った。
妻がきょとんとした顔で俺を見た。
「俺、泳げないの知ってるだろう」
俺は、金槌なのだ。今も昔も、泳げたためしがないことが俺の最大の恥じだ。
小学生の頃は、そのせいで、先生に呆れられて、放課後では補習をやらされたが、結局は俺の泳ぎは、いつも「溺れる人」のまま進化していない。
「あ、そうだったわね」
妻は、くすくすと笑いながら俺を見る。俺は素麺を口いっぱいにほうばった。夏は素麺にかぎるとはよくいったもんだ。
「スイカもあるわよ」
「ん、食べるぞ。外は暑かったからな」
「そう。けど、今日はどちらにいっていたの?」
「あ、墓参り」
口にしてから、しまったと俺は自分の言葉を後悔した。
「お墓? まぁそうだわ。私、お墓参りいっていなわ。ひどいわ、一人でさっさといってしまうなんて!」
妻は本当に怒ったといいたげに綺麗な眉をつりあげて俺を睨んだ。
「すまん」
「もう、私は、メシ炊き女房じゃないのよ。いつも勝手に決めてしまって」
そういいながらも、妻の口元が笑っていた。そこまで怒ってないようだ。よかった。ただ俺をいじめて楽しんでいるのか。妻のそういうお茶目なところが俺は好きだ。
「わかってるって、あ、風呂はいるか。一緒に」
「もう、馬鹿ね。布団しいてきますよ」
妻の背を見て、俺は一つのことを思い出した。
そっちにはあるのだ。妻に最もみせてはいけないものが
「だめだ。そっちは」
俺が、止めるよりも先に妻は寝室にはいった。そして、見てしまった。この世で一番みてはいけないものを
「あっ」
妻はなんだか抜け声をあげて、そして、ゆっくりと俺を見やる。
「ごめんなさい」
「いいんだよ」
俺は力なく笑って言い返した。
「私ったら、少し抜けてるわよね。いつも」
「いいんだ」
俺は困ったように、それでも微笑んだ。
少しばかり抜けている、そんなところが好きだった。だから、きっと今日も……
「ごめんなさい」
妻は、そういって消えた。
とたんに、冷房のない部屋には咽るような蒸し暑さが蘇ってきた。
ぱらりと、床にエプロンが落ちたのをそっと手にとって握り締めた。
「かくしときゃよかった」
俺は、自分の迂闊さを呪った。
恨めしげに寝室の隅に棚におかれている妻の位牌を見た。
今日は、去年の夏に川で溺れ死んでしまった妻の墓参りをしてきたのだ。