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屋根

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 朝起きて真っ先にカーテンを開き、見上げた空の色が灰色だったので期待を裏切られた気持ちで窓辺につるしたてるてる坊主を見やった。こんなものに何の力もなくて、ただの迷信だって分かっているのに、やっぱり少し腹が立つ。昨日せっかく気合い入れて作ったのに……。顔がにこにこ笑っているのが余計に気に障った。
 だから私は傘を持たずに家を出た。傘を持つのは普段でも面倒で嫌だと思うのに、それに加えて、何の意味もなかったてるてる坊主に苛々してしまっていたから。

 ——でも、やっぱり、折り畳み傘くらいは持って来るべきだった。
 タイミングを見計らったように、私が家を出て五分も経たないうちに雨が降り出した。駅まではまだ距離がある。びしょびしょに濡れてデートに行くわけにもいかないので、私は慌てて何かの商店の軒下に逃げ込んだ。八百屋さんとかかな。どの店もまだシャッターが下りている時間帯で、何屋さんかはよく分からない。でもとにかく、そのビニール製の安っぽい緑色の屋根に、ひとまず助けられた。
 駅にさえ行ければこっちのものなんだけれど。電車に乗って、待ち合わせの駅に着けば、そこからは彼氏の傘に入れてもらえばいい。でも駅までどうやって濡れずに行こう? ここで雨宿りするにしても、この雨、いつ降り止むか分からない。私は途方に暮れて、ぼうっと、雨のせいで霞む景色を眺めていた。
「お困りのようですね、お嬢さん」
 いきなり隣から声がして、びっくりしてすぐには返事をすることができなかった。私一人だったはずだし、人が通った気配も近付いてきた気配もなかったのに。恐る恐る顔を横に向けると、笑顔の優しい、やわらかな印象の好青年が同じ屋根の下で立っていた。こんなに近くにいて、どうして気付かなかったんだろう。
「え、ええ……傘を持っていなくて」
 私は相手を訝しく思いながら、一応は返事した。青年があまりに浮世離れしていて、失礼なんじゃないかと思うくらいまじまじと見入ってしまう。そのやわらかな物腰、佇まいもさることながら、服装が浮いていた。
 なんとなく学ランに似てはいるんだけれど、色が真っ白なのだ。だから学生服というより帝国時代の日本の海軍の軍服みたい。不良の学生が着るのと同じくらい上着の裾が長くて、それがなんだか“上官”らしい雰囲気を醸し出していた。不良学生のような上着も、彼が身に着ければとても気品あるものになってしまうようだ。
 私はそんな彼の、ある種人間離れした空気に魅せられ、異様な格好も気にならなくなっていた。彼の春の陽のように優しい笑顔で見つめられているうちに、そういう気分になってしまっていたのだ。その瞳は曇りのない、深い湖のように清く澄んだ、黒曜色だった。
「じゃあ、この中に入っていきませんか? 駅まででしょう?」
 そう言って彼は長い上着を脱いで、頭からかぶった。右半分が空けられていて、その中に入れと示すのだった。私はまったくの違和感も不信感も抱かずに、彼が作った、その布製の上質な白い屋根の中に入っていった。
 駅までの長くも短くもない道のりを歩くあいだ、会話らしい会話はほとんどなかった。けれど気まずさなんてものはなく、むしろ自宅の布団に包まれているような安らかさがあった。不思議なことに彼の上着は一向に濡れなかった。水をはじく性質の布なんだろうか。「もっとこちらに寄りなさい。肩が濡れてしまいますよ」と言って私の肩を抱き寄せた。駅に着くまでに、彼が発した言葉はその一言だけだった。密着した体があたたかくて、あまりに心地よくて、このまま、ずっとくっついていたいと思った。
 でも駅に着くと、彼の体は幻みたいに、すうっと離れていった。その軽やかさは、やっぱり人間らしさが感じられない、まるで紙のような……。
 上着を羽織り、彼はやわらかに微笑んだまま、私の眼をまっすぐに見つめた。曇りのない瞳。
「お役に立てず、申し訳ないです」
 何が? どうして? あなた、私を助けてくれたじゃない。
 そう思ったけれど、私が何かを口にする前に彼は踵を返して、まだ雨のけぶる景色の中へ消えていった。雨降る灰色の景色の中、ふんわりと消えていった。
 長い裾をはためかせながら歩く彼の真っ白い背中は、どこか、窓辺で揺れるてるてる坊主の姿に似ている気がした。
作品名:屋根 作家名:明治ミルク