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夜明け前

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 早朝五時。俺は部活の朝練のためにこんな早くから家を出る。家から学校まで一時間以上かかるんだ。
 一歩外へ出て、まず「あーあ」と思った。もう上がってはいたけれど、ついさっきまで降ってました、という瑞々しい空気。アスファルトの道路もしっとりと濡れていた。こりゃグラウンドは使えないだろうな、下手したら朝練は無しかも……と気落ちしたが、でも学校は好きだし、好きな場所へは早く行くに越したことはない。特に、朝いちばんの、まだ誰も吸っていないような新鮮で透明な空気に満ち充ちている校舎というのは、格別好きだった。
 俺の住んでいるところは、とんでもなく田舎で、普段から人通りが少ない。いわんや夜明け前は……だ。人の気配どころか、生き物の気配すら感じられないほどの静けさに沈んでいる。
 夜には三種類ある。宵の口と、夜半と、夜明け前だ。宵の口は紫で、夜半は真っ黒で、夜明け前は薄青い。世界がいちばん澄んで、時間が止まってしまったみたいになるのが夜明け前。
 雨が上がったばかりの空は厚ぼったい雲で覆われていて、どんよりと暗かった。いつもの夜明け前の景色よりずっと暗くて、なんだか朝日なんてまだまだ昇ってこないような気がする。それでも真夜中の混じりけのない黒さとはちがう、青みがかっている視界は「ああ夜明け前なんだな」と思わせるものだった。目に映るすべてのものが、うっすらと青い光を放っていて、青色のフィルター越しに物を見ているみたい。まるで、海の中にいるみたい。海といっても、たとえば太平洋のど真ん中の深い海溝、誰もいない、何もない海の底に沈んでいるみたいだ。
 海は一人で潜ると、とても心細くなってしまう場所。せめて浮き輪があればいいのだけれど、俺は浮き輪の膨らまし方を知らない。
 俺はなんだかすごく怖くなって、歩く速度を速めた。早く駅に着きたい。人のいる場所に行きたい。
 そうやって、ほとんど駆け足になりながら、お地蔵さんのある角を曲がると、いきなり人影が現れてびっくりした。ひっ、と喉の奥で悲鳴を上げてしまってから、その人が近所のばあさんだと分かって、少し気まずかった。
 よりによって、一日の最初に会うのがこのばあさんか……。
 彼女と直接話したことはないけれど、悪い評判ばかり耳にする。うちの親もばあさんのこと良く思っていなくて、冗談交じりに「早くお迎え来ないかな」なんてことを言っている。俺も、近所をあてどなくうろうろしている姿を見かけるたび、少し不気味に思っていた。俺はどうするべきか迷った。
 だが今は他に誰もいない。誰かが見ているかいないかで態度を変えるだなんて、すごく卑怯だ、と自己嫌悪しつつ「おはようございます」と笑顔で挨拶した。
 すると、無表情だった彼女のしわくちゃな顔が、ぱああと、それこそ朝顔の花が開いたみたいに、ほころんだ。無邪気な少女のような笑顔に、俺は、はっとさせられた。
 互いに軽く会釈して、またそれぞれの方向へ歩き出した。俺はどきどきしていた。どきどきして、どきどきして、どきどきしていた。ばあさんはずっと一人でこの海をさまよっていたんだ、と不思議な透明さで理解できた。じゃあ俺は彼女の浮き輪に、一時的とはいえ、なれたのだろうか。
 浮き輪の膨らまし方、見つかった気がする。
 俺は携帯を取り出して、お気楽帰宅部の親友に電話をかけた。予想通りあいつはまだ布団の中で、寝ぼけた声で文句を垂れた。それを無視し、俺は「十五分で迎えにきて。地蔵の角のを過ぎたところにいるから。一緒に学校行こうぜ」と早口に言い募ってから一方的に電話を切った。
 早く迎えに来てほしい。こんなにも青ざめた海の底から。
 海は一人だと心細いところだけれど、誰かと一緒だと、とてもあたたかくて、きらきらした場所になるから。

 ふと顔を上げて地平線に目を向けると、そこには薄ぼんやりと、橙色が滲み出していた。
 少しずつ、世界が生気を取り戻してゆく。
作品名:夜明け前 作家名:明治ミルク