光る魚
ムルの店で売っている魚は、食べるためのものばかりではありませんでした。彼は、観賞魚も売っていたのです。店の奥、ずらあと並んだ丸い鉢の中に、ありふれた魚から珍しい魚まで、色々の魚が密かに息をしているのでした。
その中に、特にクルが気に入っている魚がいました。ムルが(光る魚)と呼ぶ、暗い水の中でぼんやりと光を発する、小さな魚です。 クルは、光る魚の鉢の前を通る時、彼らと目が合わないか、胸を高鳴らしながら歩くものでした。クルは彼らの光が好きだったのですが、同時にその、小さくきょときょと動く黒い目玉も好きだったのです。その目玉が自分を向いて輝くのを期待するのでありました。ですが、未だかつて、彼らと目が合ったことはありません。
クルは普段、食用魚を袋に詰め、常連の料亭へ届けに行きます。重い袋を二輪車の荷台に載せ、片道30分程度の道を、毎朝走って行くのです。その料亭は町のはずれにあるため、クルは曲がりくねった山道を通ることになります。その道の途中に、一軒の家がありました。その家は小さく、町からも料亭からも見えない場所に、ぽつんと建っているのでした。その玄関は、クルが料亭へ向かう時刻にいつも開いていて、中の様子を窺い知ることが出来ました。帰るときには、玄関はもう閉まっています。クルは少年らしい好奇心を持ちながら、家の前を通るのでした。
開いた玄関からは、まず一本の廊下が伸びているのが見えます。そして、その両脇に三つずつ、ドアがあることが分かります。廊下が伸びる先には、また一つのドアが見えていました。
クルはある日、その奥のドアが開いているのを見ました。そして、そこに一人の少女を見ました。白い服を身に付けた少女は、目に鮮やかな蒼色の髪を長く垂らし、物うげに寝台に腰を下ろしていました。美しい少女でした。
クルはそれからも毎日その家の前を通り、度々あの少女を目にしました。最初に見掛けた時以外、少女はいつでも寝台に横たわっていました。ドアは大きく開いていて、少女は時折澄んだ瞳で外界を見つめているのでした。その空色の眼は、クルに光る魚を思い起こさせました。
少女はどうも病気らしい。
ムルの店と料亭を幾度も往復している内に、クルはそういう話を耳にし、また、そうであるような場面を目にしました。そうか病気か、病気なのかとクルは思いました。
クルの毎日は変わりません。少女の毎日は変わりません。
そうして、祭りの時期が近付いてきました。ムルは、例年この時期になると、光る魚を大量に仕入れます。どこで仕入れているのかは、クルは知りません。しかし、そんな事を知らなくても、光る魚は相変わらず光っていますし、きょときょとと目玉を動かしたりもしているのでした。
クルは、祭りになるとこの魚達が安い値段で一気に売り捌かれてしまうことを、残念に思っていました。光る魚は、子供達の玩具となり、散々もてあそばれた末に、道に打ち捨てられてしまうのです。ムルはそもそも、光る魚を祭りの出店用としてしか飼育していませんでした。だから、祭りが終わってしまえば、光る魚達は店から姿を消してしまうのです。
ああ、あの魚、とクルは考えました。日の光の中では青白い色の体が、暗がりに置かれると蛍の様にうっすらと黄色く光る、とても綺麗な、小さい彼ら。
街の外れ、料亭とは反対側の、海へ流れる一筋の川を渡る時、クルは、この川に彼らを流したらどんなに美しいだろうと想像しました。黒いペンキをこぼした上に、点々と光を放つ粒子。天の川だ、そう、天の川のように違いない。
そこまで考えて、クルはどうにも落ち着かない気持ちになりました。そして、店に帰って鉢の中の光を覗いた時、決心しました。祭りが始まる前の晩に、あの川に流してやろう。
祭りがいよいよ近付いて、町中が活気に満ちてきても、クルはいつもと変わらずに曲がり道を走りました。少女も、いつもと変わらずに横になっていました。魚達もいつもと変わらずに、ひらひらと泳いでいました。
そうして、祭りの前日になりました。
クルは日が落ちるのを待って、光る魚達がせめぎあう鉢をいくつも持ち出し、袋に詰めました。魚達は多少の動揺を見せましたが、それでも落ち着き払って尾びれを振っていました。ムルは祭りの準備に出ていて、いません。クルは急いで二輪車に飛び乗り、川へ向かいました。
川に着いた時には、もうすっかり夜になっていました。クルは、魚達が入った袋をそうっと持ち上げ、静かに水に放ったのです。
魚達は微かな水音を立ててみるみる内に光の粒になりました。彼らは僅かな間川の流れに逆らってクルの足元にとどまっていましたが、すぐに流されて、海の方へと漂って行きました。
クルはその星が完全に見えなくなるまで、瞬きもせず、立ち尽くしていました。
翌朝、ムルは光る魚が全て誰かに盗まれた事を警察に届け出た後、腹を立てて家に籠ってしまいました。クルはいつも通りに魚を料亭へ届けに行き、いつも通りにあの家の前を通りました。
異変に気付いたのは、その次の日のことでした。いつものように通った家の前に、黒い服を着た人々が大勢、悲しげな表情で立っていたのです。家のドアは開け放たれ、全ての部屋の中を見ることが出来ました。少女の部屋の中も。クルは全てを悟り、下唇を噛みました。
家に帰ると、ムルがつまらなそうに酒を煽っていました。クルは兄に、自分が今日見たことを話しました。ムルはやはりつまらなそうに、ああその娘さんなら、と言いました。
光る魚を一昨日注文して下すったよ。きっと死ぬ前に、見てみたかったんだね。
クルは何もいわずに、自分の部屋へ帰りました。そして、机の上に突っ伏して、いつまでも泣いていました。