当たり屋
今でも、本当にあったことではなく、夢なのではなかったかと思うことがある。
ある日の昼食時に先輩の社員と、どこかめぼしい定食屋でもないかと探していたのだが、思わず目を疑ってしまうものを目にした。
飲食店と思われるその店の入り口の上に掲げられている看板とおぼしき木の板に書かれていたのは「当たり屋」という文字であった。
両隣の店に挟まれて窮屈そうな、その「当たり屋」は、こじんまりとして、一見すると夜だけやっているような小料理屋の風情であったが、のれんが出ていて営業している様であった。
およそ飲食店にあるまじきその店名に、好奇心をそそられ、話のタネにでもなるかということもあり、のれんをくぐった。
入ってすぐに後悔したのだが、まず、店内が暗い、天気は曇っているのに、電気がついていないのである。
出ようかと考えていたときに、店の人とおぼしき人が目に入り、引き返せなくなった。50後半と思われるその女性は割烹着をきており、いうならば女将であり、やはりここが夜がメインの小料理屋であることを示していた。
かなり狭いその店内には、3人ほどしか座れない短いカウンターと、テーブル席が二つあった。
夜に来ていれば、ひょっとしたら、なかなか雰囲気のいい店と思えたかもしれない。
しかし、このときは、一刻も早く店を出たい気分であった。
女将は、カウンターの中に入っており、薄暗さのためか、喪にふくしているように、どんよりしていて、その後ろの棚に並んでいる皿や小鉢なども、何年も使ってないのではないかというような、有り得ない妄想をおこさせた。
テーブル席の一つには、女将と同年代くらいの小太りの女性が座っており、明らかに、ここのメニューにはない何かを食べている。
その女性は私達が店に入ってから、店を出るまでずっと「ここは、おいしいから」と言っていた。
観念して、空いているテーブルにつき、メニューを探すと、壁に、丼ものがいくつかと、うどんの文字が書かれており、あとはカウンターの上に置かれたガラスケースの中の惣菜を自分で好きに選ぶというスタイルであった。
一緒にきていた先輩は、ガラスケースからいくつか選び、ご飯を注文し、私は、温かいものが食べたかったので親子丼をたのんだ。
先輩はご飯がくるなり黙々と食べ続けていたが、彼がそうしているのは食欲からではなく、一刻も早く店を出るという目的意識からであった。
私の親子丼はいつまでたっても来ず、先輩は、とうとう食べ終わってしまった。
それから、客なのか、女将の知り合いなのか正体不明の小太り女性の延々と続く話をきかされることになるのだが、先輩はもちろん、小太り女性まで私の親子丼を待っているような空気になっている。
先輩が食べ終わってから10分ほどでようやく親子丼がきたのだが、それを見た私は、しばらく前から抱いていた悪い予感が的中したと思った。
つくるのにこれだけ時間がかかるというのは、ひょっとして、あまりつくり慣れていないんじゃないかと考えていたが、どうやらそうらしい。
その親子丼は一言でいうと失敗作である。その失敗したものを客の前に、はこんできたというのが正解である。
卵がスクランブルエッグになっているのだ。
親子丼といえば、あの卵の絶妙な半熟具合、白身は少し透明な部分が残っているくらいが私は好きなのだ。
しかし、ここまでなら、まだ、ある話かもしれない、この後が壮絶であった。
親子丼をはこんできた女将は、何を思ったか、私達のテーブルのあいた席に座ると、そのまま私が食べ終わるまで居座り続けたのだ。
そして私が食べている最中にもかかわらず、「最近は、サルモネラ菌とか危ないから…。」とスクランブルエッグになった言い訳ともとれるようなことをしゃべりだした。
確かに、その当時、O-157とかの食中毒の問題が取りざたされてはいたが、おいしい親子丼が食べられなくなるなどとは聞いたことがない。
卵が古ければ話は別だが…。
私は、サルモネラ菌の話などされて食欲も完全に無くしているのだが、食べるのを止められる状況ではなくなっていた。
いつの間にか小太り女性まで加えた3人が、親子丼を食べている私を、取り囲んで見ているという状況に陥っていた。
先輩は、おばさん2人の声など全く耳に入っている様子はなく、ただ私の親子丼一点を見つめ、その量の減り具合にしか関心がないといった様子であり、小太り女性は何度も親子丼の味についてのコメントを求めてくる。
そもそも女将は、自分の店の名を考えて、このサルモネラ菌の話をしているのだろうか。この切迫した状況を打開すべく、私は他の客の到来を祈った。
もし、そのとき誰かがきていれば、私はその見ず知らずの人の永遠の幸福を願うことすら辞さなかったであろう。
しかし、日常にぽっかり口を開けた落とし穴に落ちてもがいている私に救いの手はなかった。一瞬、これを食べ終えてしまうと、次は私が煮られて食べられてしまうのではないかとの妄想にとらわれ、食べる速度が落ちかけたこともあったが、何とかそれを振り払い、文字通り悪夢のような時間を乗りきり、親子丼を完食した私は、速やかに精算を済まし、早々に店を出た。
このとき頭をよぎったのは、よくある怪談話のオチで、私は決して振り返ることなくその場を離れたのであった。