あるかぜひいたひ
朝早く起きてきたりあのの顔を見て、一貴は目を向いた。
いつもきつい光を宿しているアレキサンドライトの瞳はとろりと濁り、薄く開かれた口からは短い間隔で熱っぽい吐息が繰り返されている。病的な程に白いはずの頬は彼自身の持つ淡いピンク色の髪と同じほどに色付いていっそ美しいくらいだ。
ふらふらと歩いてくるりあのの腕を掴み、更に眉を顰めた。 熱い。
「おい、お前熱あんじゃねェのか?」
「……あ? …………るせぇよ、水持って来い水」
普段よりも遅い反応にどうしたものかと黙り込む。触れたところは益々熱を帯びていくかのようだ。心なしかふらついているりあのを椅子に座らせて一貴は水と薬を取りに台所へと向かった。
…が、薬が無い。そういえばこの家は傷薬と睡眠薬以外の薬を見たことが無いなと思い出した。
仕方なく氷を入れたコップを手に戻ると、目に入ったのはテーブルに突っ伏して荒い息を繰り返すりあのの姿だった。
「っ、おい!?」
身を抱き起こし右手を額に押し当てる。さっき掴んだ腕とは比ではない熱さに思わず舌打ちをした。
あまり熱を出す経験の無い一貴にしてみてもこの熱さではあまり良くない状態だという事はわかった。幸いまだ律貴もまおらもおきてきてはいない。何かしらと騒がれる事も無いだろう。
瞬時にそれを考えれば、一貴は自分と10センチほどしか違わないりあのを背負った。
元々食事を抜く事の多かったりあのの身体は軽く、楽に持ち上げる事ができた。りあのの口から吐き出される熱い息が首筋に届きくすぐったい。震えそうになる背筋を堪え、自室へと足を急がせた。
「……38度2分……」
「……案外あるもンだな……」
「こりゃ風邪だな、薬ねェから大人しく寝とけよ」
「ん……」
自身にある熱を理解したからだろうか、珍しく素直に頷いたりあのを横目に一貴はベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。氷が溶けかけたコップをテーブルに置き、ひやりと冷たくなった右手を汗で張り付いた前髪を避けながら額に置いてやると、天井を見つめていた瞳が閉じられた。
水を飲んだはずの唇はかさかさに乾燥し、呼吸が和らぐ事は無い。
薬を買いに行くべきかこのまま傍にいるべきか、悩む一貴の耳にこの場には不釣合いな可愛らしい、明るい機械音が届いた。ぎしぎしと効果音が聞こえそうなほどの動きで首をめぐらせドアを見ると、携帯を片手ににんまりと笑う律貴と目が合った(と一貴は思った)。
「…………おい」
「わーぁ、ラブシーンゲット。適当にバラまいてやろーっと」
「やめ……っぶ!」
「しー、っだよいっきゅん。お兄ちゃん起きちゃうよ」
思わず大声を出しかけた一貴の大口を、いつの間にか入ってきていたまおらがクッションで塞ぐ。
その手には……携帯。
こいつも写真撮るつもりなのかと見ていたが、どうやら違うらしい。
ディスプレイはメール作成画面を表示している。宛先は複数。忙しない、が、全てひらがなのメールが見えた。
『おにいちゃんが かぜひいたよ』
そして送信。一体何人に送ったのか、恐らくは友達ほぼ全員にだろう。
呆れた様子の一貴そっちのけで律貴が口を開いた。
「どーせ薬ないんでしょーぉ? 遊びに行くついでに買ってきてやんよぉ」
「あ、まおらさんも行くー! ついでに友達にも電話するー」
「……あー……金はあるな? 昼は外で食って来てもいいが、夜までには戻って来いよ」
珍しすぎるその申し出にまおらが手を上げて賛同する。最近ゲーセンに行けてないので行きたいのだろう。
携帯を掴んでいる右手を振り回して声をあげる。
それを制しながら一貴が問い掛ければ、当たり前だといわんばかりに律貴は頷いた。
その間も一貴の右手はりあのの額に置かれたままで、りあのは目を覚ます気配すら見せない。余程その冷たい手が心地よいのだろうか。
「いいか、律貴はそこらの奴を誘わない事。まおらは大量に食って支払いをこっちに持ってくンなよ」
「さぁて、どうしよっかなーあ?」
「頑張ってガマンするー!」
初めてお使いに行く子供に言い聞かせるように一貴が忠告する。何処の母親か。
それに突っ込みを入れてくれるはずの人間はベッドの上で寝てしまっているのでこの状況をおかしいと思う人間は一人もいなかった。
いってきます。
そう律儀に言ってから二人は家を出ていった。
玄関まで見送ろうにもいつの間にか一貴の服はりあのに掴まれており、仕方なく部屋のドアから出て行くのを見送るのみに留めた。
いきなり静かになる室内。聞こえるのは時計の秒針が進む音と外から聞こえてくる車の音、それから一貴とりあの、二人分の呼吸の音のみ。
目を閉じていれば普段のきつい眼光が隠れ幾分か幼い顔つきになるその寝顔を見つめながら、一貴は大きな溜息をついた。
「 」
ふと、りあのの口が動いた気がして目を向ける。口元が小さく動いていた。
寝言か?と耳を澄ましてみると途切れ途切れだがそれは聞き取る事ができた。
僅かに驚いたような表情になればいままでにない程の、まるで、本当の母親のような(男にこんな表現も変だが)表情を浮かべた。
「……今は、寝てろよ……?」
極力優しい声で。普段らしからぬ声色でそう告げれば、椅子に座りなおして自身も目を閉じた。
「母さん」