秋の終わり
「この部屋こんなに広かったんだねえ」
こくんと咽喉を鳴らして一口のみ込んで、そう呟く三四子の声はもう涙で濡れている。鼻の詰まった不明瞭な発音にまじってずずずと啜る音までしては、こちらはどんな顔をすればいいか分からない。ともに泣くべきか笑い飛ばすべきか。でもそのどちらも、今は正解でないと思った。
ふたつあるものはひとつずつ。ひとつしかないものは持ち込んだほうが。二人で買ったものは使用頻度の高いほうが。そういう決まりでひとつひとつ分けていくと、この部屋にあるほとんどのものは三四子のものだった。こんなにたくさん持ち込んだら怒られちゃうと三四子は言う。それならば処分すればいい。そう答えると三四子は悲しそうな顔をした。
粗方の財産分与が終わって、ちょっと休憩しようと三四子が提案した。中身の詰まった段ボールを部屋の中央まで持ってきて、これがテーブル、三四子は魔法でもかけるみたいに、だからその言葉はそのための呪文みたいに指先で示しながら発せられて、その上にあっという間にティーセットを広げてしまった。その透明の茶器は三四子がこの家にやってきたときに持ち込んだものだったが、大層気に入ってしまったのでそれだけは置いていってほしいと懇願した唯一の”財産”だ。
部屋はほとんどがらんどうになった。ここに嘗て在ったものたち、三四子の取り分、それらはすべて引越し屋に預けられたり役所の回収を待つためにマンションの入り口に待機させられたりしている。こうしてみるとなんだか離婚する夫婦みたい。三四子はそれを何となく呟いてから、慌てて否定するように言葉を誤魔化した。でもその通りだ、違いはない。そう思う気持ちはむなしいくらいよく分かる。
三四子の淹れたハイビスカスティーはこの一回分でちょうど使い切ってしまう。ふたりでハワイへ旅行したときに買った土産の茶葉で、あまりに素晴らしい香りなので二人が揃っている時でなければ淹れてはいけないことになっていた。そういうものが少しずつ減って、ついに三四子がいなくなる。今日という日はつまり、ただそれだけの日なのだった。
「やっぱり焼けちゃってるね」
くっきりとあとの残った床や壁を撫でまわして、三四子。とっとっと。紅茶を勢いよく注ぐ流動の音と、外からの雑音。
「そうだね」
それをこっくりと咽喉に入れながら、最後の茶会は進んだ。
あの場所に化粧台、あの場所に洋服箪笥、あの場所には誰誰のポスターが貼ってあったよね。三四子のはしゃぐ声が白い部屋に木霊する。
この部屋の高さからだとバルコニーの向こうに街路樹の頂点がちょうど見える。緑色素を落としきってすっかり色の変わったそれは今にも散っていきそうなほど頼りない。この部屋を借りて暮らし始めてから一年経って、いつの間にか三四子が転がり込んできてからはさらに数年が経った。ここでふたり、この落葉の季節を何度経たかわからない。でもそれももう最後だ。
「新居の荷解き手伝えなくてごめんね」
「いいよ、いいよ。だって遠いし、田舎だし」
「落ち着いたら遊びに行くよ」
うん、と三四子は深く肯いて笑った。
空になったティーカップの底。うすら赤く染まったその最後の色を見つめる三四子の瞳はもうずっと先まで視えているように透明だった。それでいて過去になってしまったすべてのものを名残惜しんで、今なお小さな丸い肩を呼吸に合わせて上下させている。涙の膜の張った眼球の上にふたりで過ごした日々の全部が閉じ込められているようで、それがこぼれてしまう瞬間を見逃すまいと、ひどく緊張していた。
「三四子」
呼ぶと三四子は祈るような視線で見つめてくる。それを受け止めて返す。この視線から三四子の望みを探ることは容易い。だってもうずっと、何年もそれをしてきたのだから。
「……引越し屋さんが待ってる。この荷物ももう預けちゃわないと」
三四子の双眸に溜まった涙は波打つほどにいっぱいになっていた。でも笑ってやらないといけない。出て行くのは三四子で、淋しいのも三四子だ。置いていかれるのが三四子でなくても、ひとりになるのが三四子でなくても、涙を流していいのは三四子だけだった。
三四子は立ち上がる。脇に置いてあったコートを羽織り、肩に鞄を掛けると段ボールの上のティーセットを避けて、その荷物を持ち上げた。背の低い三四子に抱えられてそれは格別に大きいものに見えた。
三四子を乗せたタクシーは駅の方へ走りだす。後を追うように引越し屋のトラックも発進した。大小の二台が大通りを曲がって見えなくなるまでをバルコニーから見届けると、入れ違いに、粗大ごみを回収するトラックがマンションの前で停まる。
「結婚おめでとう、三四子」
空っ風の吹きぬける寂れた通りの街路樹から、少しずつ秋が散っていった。