灰色の空
テツは相変わらずパソコンに向かっている。
きっとまた、くだらない妄想でもしているんだろう。
嵌め殺しの窓から見える灰色の街も、しとしとと煙っている。
ブランキージェットシティのギターが、灰色の部屋の中に鳴り響いていた。
打ちっぱなしのコンクリート。
やけに朗々と響く。
テツがパソコンに向かっているときは、いつもこのギターが部屋に満ちている。
テレビはつけない約束。
彼のくだらない妄想の邪魔になるらしい。
『彼女のことが好きなのは、赤いタンバリンを上手に打つから。』
テツは赤いタンバリンを上手に打つ女の子を好きになったことがあるんだろうか。
身体に合わないてろんとした光沢のある下着の裾を引っ張る。
自分のやけに尖った膝小僧を見ていると、赤いタンバリンなんて上手に打てる気がしない。
『彼女のことが好きなのは、赤いタンバリンを上手に打つから。』
テツは赤いタンバリンを上手に打つねと言って女の子を好きになりたいんだろうか。
赤く塗りつぶした足の爪と白すぎる皮膚が、赤いタンバリンなんて似合わないことを教えていた。
脛に青い痣。
昨日の客は酷かった。
大人しく足を開いていたら、この淫売めと暴力を振るってきた。
珍しくもないことだが、理不尽だとは思った。
街角に立つ自分に声をかけて金を差し出してくるのは男だっていうのに、それを責めるのもまた同じ男なのだ。
その淫売ってやつを必要としているんじゃないんだろうか。
清純とか純粋とかいう女の子は金を出されてのこのこと男についていったりしないものだ。
もしかしたらそんな商売があることすら知らないかもしれない。
これ以上ヤバい目に遭わないようにと逃げ出した。
暗い路地に屯している男たちの下品な野次が、半裸の肌に突き刺さった。
ああ、金をとってない。
それどころか服だって忘れてきた。
自分のあまりの惨めさに、涙が出そうだった。
空を仰いでも、真っ黒な穴。
結局どこまでも墜ちていくしかないんだって。
叫び声をあげようかと考えて、止めた。
家に帰って、テツの顔を見て、それで彼が少しだっていいから何かおかしいことに気づいて抱きしめてくれたなら、この叫びだしたいような泣き出したいような逝き場のない絶望も収まるだろう。
そんな淡い期待も、部屋を満たしている真っ暗な闇に押し潰されてしまったけれど。
現実は物語みたいに救いを用意していてはくれない。
テツは昨日に限って普段よりも早く寝てしまったらしい。
眠っている男に毒づきながら、テレビをいつもより大きな音でかけて、牛乳を飲んだ。
牛乳が舌の根に絡み付いて、最悪だと呻りながら朝を待った。
寝るなんて、思いもつかなかった。
「マリア。」
ネタにつまったのか、それとも腹でも空いたのか。
昨日の仕返しだと、返事をせずに煙草を取り出して火をつけた。
自分の小さな手のひらにもすっぽりと隠れてしまうほど小さい、やけにカラフルなライターは以前テツが買ってきた煙草のおまけでついていたヤツで、どうにかこうにかガスを補充して使っている。
テツ自身はきっと、アタシにくれたことすら忘れているに違いない。
ムカツク。
テツに向かって投げつけたけれど、ライターは低空飛行を保って回転椅子の足にぶつかった。
カーン、と錆びた音が響く。
「煙草買ってきて。」
アタシの小さな抵抗すら気に留めない彼は、全くのマイペースでそう言った。
すっと息を吸う。
煙が肺になだれ込む。
喉を焼くメンソール。
もやもやは煙が誤魔化してくれる。
「あるじゃん。」
ワーキングデスクの傍らに落ちているセブンスターの、白いカートンの袋を指差すと、テツはわざわざ拾い上げてひらひらと振って見せた。
空っぽだ。
「雨降ってる。」
「傘持ってけよ。」
「濡れるから、やだ。」
我慢しなよ。
テツが、大きな目を不満そうに細める。
その鼻っ先に噛み付いてやりたいと思ったけど、立ち上がるのが億劫だった。
昨日あちこちにぶつけた体が痛いし。
「これでいいなら、あるよ。」
アタシは自分の煙草の箱を掲げた。
「メンソ、好きじゃねェんだよ。」
「自分で行けば?」
「今動いたら、全部出ちまう。」
頭から腐ったチーズが流れ出すジェスチャア。
テツはその、腐ったチーズで金を稼いでいる。
世を騒がせる、もしくは騒がせるに至らなかった凶悪事件を、宇宙人の仕業だの、新種のウイルスのせいだのと出鱈目に理由付けしては記事にしているのだ。
世の中にはそんなくだらない記事ばかりを載せる雑誌もあれば、そんなくだらない雑誌を好んで買う輩もいるらしい。
もしかしたら世の中がくだらないのか。
テレビの芸能人をもてはやしてキャアキャアと騒ぎ立てる人種や、黙々と仕事が人生みたいに早足で歩き続ける人々、アタシやテツみたいにとろけた脳みそでだらだらと日常を食いつぶす人間。
みんな怪獣みたいだ。
灰色の街には怪獣ばっかりが住んでいて、のっしのっしと練り歩いて、そしてキラキラ光る宝物を探しているんだろう。
街は灰色で、怪獣達も灰色だから、きっとキラキラ光るものなんてないに違いないのに。
「マリア。」
「なあに?」
「オムライス食いたい。」
ああ、テツはずるい。
鈍い鈍い頭で感づいてそうやって甘えてくる。
アタシがオムライスしか作れないことを知ってるくせに。
少しべっちゃりとしたチキンライスに、ところどころ焦げて硬くなった卵が被さっただけの出来損ないを、さも美味しそうに食べてみせる。
アタシがそれを喜ぶことをよく知っているのだ。
「卵ないよ。」
「買ってくりゃいいじゃん。ついでに俺の煙草も。」
「どっちがついで?」
「煙草だよ、ターバーコ。」
ぽんっと、財布が投げて寄越される。
うっかりご機嫌をとられたアタシは、間抜けにもそれを受け取ってしまう。
「煙草だけでいいの?」
「ん。」
何もいらないよ。
テツの何もいらない、はいつだって意味深だ。
多分アタシが、煙草とテツ以外を必要としてないみたいに、テツもまた煙草以外を必要としていないんだろう。
求めているものにテツが加わっている分、アタシは欲張りで。
煙草以外を求めない分、テツは人生に失望してる。
喫煙はアナタの健康に悪影響を及ぼします。
最近煙草のパッケージには、口煩いオバサンみたいな注意書きが印刷されるようになった。
そんなことはとっくの昔に知っているのに。
後悔は、死ぬ寸前にしたって遅くない。
近頃の人間は長生きしすぎる。