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モルビド

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 きみ。
 あなた。
 お前。
 ユー。
 そなた。

 名前のない誰か。
 呼び名のない何か。






 誰が来るでも誰を呼ぶでもない、一人暮らしの長い部屋は雑然としている。かろうじてゴミは捨てているが、半ば手当たり次第に買う本が寝床をぐるりと囲んで、朝抜け出したそのままの布団を巣のように見せていた。
 服にも頓着しない。義務感で洗濯をし、乾いたら順に着るだけの服が冬も夏も区別無く、黒っぽい小山になっている。
 『きちん』としている場所はここには無い。読み終わってしばらく経つ本は、衣装箪笥の引き出しに次々と投げ込まれるだけ。整理整頓や整然といった景色はここには無いが、一定の、誰にもわからない規則性が私の部屋にはあった。
 部屋着に着替えると、敷きっぱなしの布団に座り込む。掛け布団を背もたれに、ゆうべ空が白み出すまで読んでいた本を開いた。
 生ぬるい夏の夕暮れがじわりと染み込んで、電灯からぶら下がる紐を一度引く。本の紙が蛍光色の白でぱっと光り、私は目を眇めた。
 その時、腰のあたりにわだかまった布団の中から、ごそごそと、それは這い出してきた。
 大きなうさぎのようであり、クマのぬいぐるみのようであり、猫のようで犬のようで、そのくせそのどれにも似ていない。生き物と言うには恐らくその定義から外れ、ではなんなのかと問われれば答えに困る。
 それはそんなものだった。
 口が無いようで、鳴きも噛みつきもしない。目が無いようで、どちらを向いているのか全くわからない。尾も耳もヒゲも爪もなにも無い。
 それはただなんとなく楕円形の球体で、ほわほわと柔らかな、子猫のような毛玉だった。
 私はそれを――布団の巣の中から出てきたそれを、それの動くままにさせておく。読書中だ。取り込んでいる事がわかるのか、わからないのか、それはもよもよと私の腹に乗り上げかけて、気まぐれに止めてしまう。
 行き場を探すかのようなそれの、ごく柔らかな毛が肘のあたりをくすぐった。
 私は本にしおりを挟むと、肘をくすぐった柔らかいそれになんとなく手を伸ばし、撫でる。子猫の手触りのその下は得体が知れなくて少しばかりぞっとする。
 生き物の感触ではない。
 けれど無機物の感触でもない。
 指先にはただ柔らかな毛玉の感触。
 その存在が私にとって何なのか、と尋ねられたら私はひどく困惑するだろう。
 それは「何か」と断定できないものだったし、そもそも、それの事をそんな風に意識して考えた事が無い。それは子猫の手触りをした毛玉で、生き物ではなく、けれど死んでいない。――そう、事実だけを答えるしかないだろう。
 小さな手足や、牙や、目のひとつでもあれば、それをなにかの動物として認識しただろうし、不気味がる事もできただろう。だが、今、とうとう私の腹の上に乗り上げたそれは、そんなものではないのだ。
 不気味にすら思えない。ぞっとするのは、存在に対してではない。指がどこまでも埋まりそうな、感触に対してだ。
 それは腹の上で定位置を探すようにもよもよ動いていたが、しばらくすると息をする私の腹の動きだけが残った。
 一人暮らしの長い乱雑な部屋を、蛍光灯が白々と照らしている。
 本が層を成している寝床のまわり。黒っぽい小山になった服。読みかけの本が一冊。
 それと、私。
 少しして、腹の上から滑り落ちた毛玉は、また私の背もたれになっている布団の中へ戻っていった。私はしおりを挟んでいた本を開く。
 開け放した窓から、キン、と最初の雨粒が手すりに当たる音がした。
 今夜は雨らしい。











モルビド
(伊)morbido
[形]柔らかい、柔軟な、従順な、滑らかな、流暢な、病弱な、ふわふわした、ふかふかの



作品名:モルビド 作家名:鈴木さら