ヴェンデッタ
指先が冷えている。
弟は、まるで冷たい目をして
「殺そう」
と言った。
母は泥酔して床に転がっている。
散々暴れて、部屋の中はめちゃくちゃ。椅子の足が一本折れて、晩ご飯に食べるつもりだったスープはもうない。鍋だけがごろりと転がっている。
「また、父さんが怒るね」
弟がぽつりと言った。真っ赤な顔をして私達を殴り付ける男が、たやすく浮かんだ。
寒い部屋。
「殺そう」
弟が母を見下ろしながら言う。私は母を見下ろしていた目をあげる。
「殺そう」
私は、まるで彼と心が一つになった様な気分で、彼が母を背負うのを手伝った。
アパートメントの凍り付いた階段を、私と弟はゆっくり登る。
十六段。
母が、口の中で呟いたうわ言さえ聞き取れる程、辺りは静かだった。
「もし、これで駄目だったら」
口にした言葉は白くなって空中に散った。
私と弟は、正体を無くしている母を左右から支え、
「何度でもやり直せばいいよ。ここは六階だから、何度でも」
微笑み合いながらそんな会話をした。
私と弟の間に、言葉はいらなかった。
私達は、二つ揃ってやっと一つだった。
さよなら、と私と弟はそっと呟いて、ありったけの力で母を階段に放り投げた。
私達は二回、それを繰り返し、動かなくなった母を置いて晩ご飯の為に家を出た。
帰って来ると、アパートメントは騒然としていた。私達は人だかりを掻き分けて部屋に戻り、警察官に母の死を告げられた。
「ああ、なんてことなの、ヴィネ、ギノ」
近所の老婦が私達に駆け寄って、大声で言う。
ええ、おばさん。なんてことかしら。
私達、晩ご飯の用意の為に買い物に行っていたの。
ギノを留守番にさせていればよかったわ。こんなことになるなんて。
ほんとうに、なんてことかしら。
父は、葬儀から数日はおとなしかった。
酒は飲まず、薬を飲んでは部屋の隅で壁に向かって何か呟いていた。
私は母が殴った肩の痣を弟に見せる。
「少しだけど薄くなってる」
弟は父が押し付けた煙草の痕を私に見せる。
「痛む?」
「だいぶ楽だよ」
私達は二つで一つ。
父が弟を殴り出したのは、一週間ほど過ぎた日からだった。
内側に向かせていた薬が、溜まり込んで外側に向かせる。
弟は声を出さない。
出せばまた殴られる。
私は、頃合を見て間に割って入る。
そうすれば、次に殴られるのは私で、弟は致命傷は避けられる。
口汚なく、私と弟と神を罵りながら、父は濁った目で機械の様に殴り付ける。
弟が、ナイフを持つのが目に入った。
ああ、私達はこの時を待っていた。
幼い手足が力を蓄え、残酷に刻まれた痛みが復讐という名を持つこの時を。
この時を。