安住の地
兄の吐いた物をかき集めて袋に抛り込むと嫌な水音がした。横倒った兄は血管の浮いた薄瞼を閉じたまま動かない。鼻の下には血液が茶色くなって乾いて、ぐしゃぐしゃに乱された髪は血と汗と吐瀉物で濡れている。雑音の混じった呼吸がひゅうひゅうとその咽喉から漏れていなければ、兄はついに死んでしまったと、判断するところである。けれど兄は生きている。苦い酸を口から垂れ流しながらそれでも、不幸なことに、いつも死にはしない。
兄の瞳が瞼の切れ間から美しく光った。細く鋭いそれを母は心底嫌っている。嫌っている、どころか、憎んでいると言ってもいいくらいだった。世の母親というものが我が子に愛情を注ぐのとまるでおんなしように、母は兄に暴力を与える。それは今日のように鈍く暗い音を立てる殴打であることもあれば、金切り声の罵詈であったり、食事を与えないことであったりした。いずれにせよ兄はいつも嘔吐して妹が胃酸のひどい臭いをまといながらその後片付けをする。母は兄への暴力が、妹に対する暴力になり得るということに気付いていない。
粗方のよごれを拭い終わって袋の口を縛ると兄の口唇が小さく動いた。声は出ない。兄は声を出すことが出来ない。昔、母が硝子の破片でその咽喉を突き刺したとき声帯が傷ついて何も言えなくなった。空気の通る音、唾液の水音、歯の噛み合う音、そういうものだけが彼の咽喉から唇から繊細に鳴る。もっとも母にはそれすら厭わしいようだったけれど。
兄の唇はすぼまり、ひらき、ほそくなる。妹は思わず眉をひそめた。
「そうだね」
袋を二重にして厳重に封をすると兄は可笑しそうにわらった。彼も大概、狂しい、どうかしている。とはいっても度重なる暴力によって狂ってしまったというわけでもない。妹の知る限り、兄は初めからこんなふうだった。殴られ血を吐いて汚れても笑うことが出来る。それは間違いなく他人の激昂を誘う。それでも兄はいつも笑った。別段何か意図があるわけでもない、ただ感情の吐露とおなしように思わず口をついてしまう笑いであるらしい。
織り目の粗い布に水を含ませて彼の顔面や髪を拭ってやると煩わしそうに顔を顰めるがどうせその両手はろくに動かない。折れるほどではなくても、罅くらいは入っている。大人しくして、というと兄は観念したようにまた両目を閉じた。
彼は繰り返し唇動だけで言葉を紡ぐ。部屋中に籠った饐えた臭いに兄妹は辟易していた。
* * *
兄への暴力が無音の――すなわち食事を断つというかたちのものになり、それが暫く続いていた。妹は塵箱に棄てられてぐちゃぐちゃになった残飯を拾い集めていつものように兄へ差し出す。母は妹がそれをすることを好んではいなかったが、そうしなければ兄は死ぬであろうことに気付ける程度の分別は失っていなかったので、努めて彼女の目を盗むように振る舞えば口を出すことはされなかった。あるいはそれをせず、餓えて死んだほうが余程ましなのではないかと思うことが無いでもなかったが、妹がそれを断ずることは難しかった。差し出された『かつて食べ物であったもの』を兄は残さず平らげたし、そうすることで兄は生き永らえた。だから妹はいつも塵箱をひっくり返す。
兄がこれほど長い間、血を流さないのは珍しかった。母の暴力はさまざまに形を変えるのが常であったから、こんなこともあるのだなと思っていた。母はいつにも増して興味のなさそうな顔をしている。けれどそれも彼女の気まぐれでしかないと信じ込んでいたのだ。
不吉の予兆はこんなふうに確かに示されていた……ただ、妹がそれに気付けなかっただけで。
* * *
「おかあさんがいなくなった」
兄と視線をまじえることも出来ないで、妹はただ呟いた。繊維の逆剥けた古い木机の上に簡素な言葉を乗せた紙切れが一枚残されていた。握りしめて皺だらけになったそれを兄はひょいと取り上げる。妹は茫然と兄を見上げた。
「わたしも、置いていかれた……」
兄だけではなくて。それを他ならぬ兄に訴える傲慢を妹は理解しない。母の美しい文字が、妹の中で呪いに変わる。
「だから殴らなかったんだ」
予兆はあった。母の瞳。憎しみすら、もはや抱いてはいなかった。
「トキ……」
妹はすがるように兄の名を呼んだ。兄の唇が動く。その鋭眼で妹を見下して射るように言った。
――可哀相に。
彼のまとう衣服はいつものように汚れて異臭を放つ。けれどもうそれは異臭とも思われない馴染んだにおいだった。食べ物の腐ったにおい、饐えた胃酸のにおい、皮脂と垢のにおい。妹はその薄汚れた布を力の限り握りしめた。なぜ気付けなかったのだろう。それらのにおいのなかに、妹はいつも、兄と等しく存在していたのである。
「可哀相」
妹が揺れる瞳でそう反芻する。兄は、笑った。嬉しいのでも楽しいのでもない、嘲りとも違う、ただ笑った。いつものように。
その夜兄と妹は、ふたりになった。