うたかた
不意に耳に入って来た声は、聞き覚えのあるものだった。
それと同時に、嗅覚を刺激される。
井草特有の香りと、鼻孔をつくような、それでいてどこか柔らかい……これは煙管……?
「ねぇ?聞いてるの?」
「……聞いてるよ、言われなくても」
重たい体を起こして、声の主をしっかり見据える。
「いい夜だ、月が綺麗だね」
黒を具現化したようなその男は、紫煙をその体に燻らせながら月明かりの下にいた。
男の言う通り、満ちた月はとても綺麗で仄暗い部屋に光をもたらしている。
「こっち来たら。またそのまま寝てしまったら元も子もない」
折角起きたのに、とふぅっ、と白いものを吐き出す。
もう少し寝ていたい、寧ろこのまま起きたくない気持ちが強かったが、珍しく男の言う事を聞くのも一理あるな、と思えた。
布団から出てぺたぺたと畳を踏み付ける。
直に伝わってくる感触が心地良い。
男に倣って縁側に腰を下ろす。
「君は昼と夜、どっちが好き?」
何をいきなり、と口走りながら訝しげな目を向けながら夜、と小さく答えると、
「ふぅん。何で」
と聞いておきながらさして興味なさそうにちらり、と僕を見た。
「……なんとなく」
「まぁ理由なんてないよね、こんなことに」
でも僕も夜が好きだよ、一応理由もある、と少しだけ口角を上げた。
「じゃあ教えなよ、何で夜が好きなの」
「さよなら、できるから」
カン、と灰を落とす音がやけに響く。
「夜になると全てがリセットされる気がするんだよね。ありとあらゆるものが、ね。それが自分にとって良かった事でも、悪かった事でも関係なくさ。それでまた朝になって同じ事の繰り返し」
と言いながら、男は雁首に煙草を詰めて、炭火から火を取った。
「ふぅん。でもそう簡単にいく訳ないよ」
「イメージの話をしてるんだよ。イメージの」
くすくすと笑いながら、静かに煙を吸う。
「でも同じ事の繰り返しなのは分かるだろう?」
僕が今こうして味わっている煙も種類を変えなければずっと同じ味なのと一緒でね。
「変な事言うね、貴方」
そうかな、と男は口元から吸い口を離して火入れの上に置いて空を見上げる。
「変えたければ、自分が変わるしかないんだよ」
若しくは現状を受け入れてそれに甘んじるか、ね。
「それって周りと同化しろってこと?」
「まさか。僕がそう言うと思う?」
微かに口角を上げて、男は僕に目線を合わせてくる。
「さぁ。僕が貴方の思考を知っている訳ないでしょ。何なの、何様のつもり」
視界が、歪む。
「僕は、君だよ」
何時、何時だって判断に迷った事はない。
けど、今は何が起こったのか、何を言われたのか分かり倦ねた。
口を塞いだのは、唇……?
「でもオナジではない」
「……いみ……わからないよ……」
最初から、ずっと。
「……僕も分からなかったよ、君だった時は。でも」
耳元に熱を感じる。
「今はただ、これだけを理解すれば良い」
「な……に」
「目に見えるものを信じるな」
静かに耳を反芻する、意志のある言葉。
ゆっくりと、溶けていく。
渦巻管を通って、脳へ海馬へ、そして体中へ。
それが、「僕であって僕でない人間」を初めて認識した時だった。