outheart
神は万能ゆえに、存在する力を持つ――だから、神は存在する。
神は万能ゆえに、存在しない力を持つ――だから、神は存在しない。
彼らは矛盾に苦悩する。
矛盾を愛すか憎むかは、彼らしだい。
目の前にいるあなたは、矛盾は好きですか? それとも嫌いですか?
*
2月下旬 神戸市 中央区 方等学園
授業にいくか、探検にいくか、さあどうしよう。
西日の差し込む長い廊下を歩きながら、王手薫(おうでかおる)は考える。
方等(ほうら)学園に入学してから、早くも一年が経とうとしている。
だが一年近くの付き合いにも関わらず、広くも無いこの学園で全く未知の場所が存在した。
南館の資料整理室の奥――そこには地下への入り口があった。
一学期の初め、じゃんけんで負けたという理由で押し付けられた図書委員。敗北した時は悲しんだものの、もう1人の図書委員が美少女だった事に心を躍らせた。布入緋居瑠(ふいりひいる)という自分にも劣らぬ変な名前を持ち、小柄で眼鏡をかけた色白の少女。しかし、どこか人を寄せ付けない雰囲気があり、それは他人を威圧するというのではなく、自分の方から人との関わりを拒絶するような印象を受ける。
委員決めのホームルームが終わり、休み時間に入ると、王手は担任に呼び出され、その理由を知る事となる。――自閉症。聞いたことが無く、名前での雰囲気しかつかめなかったが、どのような病気であるのかすぐに理解できた。コミュニケーション能力の低さ、というよりは言葉のつたなさが目立っていたからだ。第一回の図書委員会、布入は消え入りそうな声で自己紹介したのだが、彼女の発した言葉は「一年二組……布入緋居瑠……よろしく……お願い」と、接続語や活用形を間違っていた。
布入の病気持ちという第一印象はとても強烈だったが、その第一印象がゆえに、第二印象の衝撃はひときわ大きくなる事になる。彼女は言語機能に障害があるものの、知能的には優秀で、一凡人(いちぼんじん)である王手には完全に優等生とも感じられる存在だった。言葉さえ使わなければ、殆どの全ての事に対処でき、例外なのは男子との会話。弱気な文学少女――それが彼女のイメージとなる。
もちろん、会話できないのは男子全員で、王手もその中には入っていたのだが、図書委員という共通項から、それを抜け出す事となる。布入と仲良くなり、三学期まで同じ図書委員としてあり続け、簡単な会話を繰り返していくと、色々な事を知った。
彼女の親族の男性は代々この学園の理事長を務めている事。
理事長は彼女の父親であるが、それは生徒達には内緒にしている事。
その父親は優しくて、この学園に関するいろんな話をしてくれる事。
この学園は築100年も経っており、何度も改装工事をしていた事。
学園ができる前は、この土地にはとある宗教団体の本部があり、それを壊した事。
宗教団体の教祖は地下室を作っていたが、何故かそれだけは破壊せずに残してある事。
この図書室の一角にある、いつも施錠されてる資料整理室にはその入り口がある事。
彼女はその中に入ってみたいと考えていた事、そして――彼女の家に予備の鍵がある事。
王手は迷える布入の背中を押す事にした。好奇心もあったし、何より彼女が意見を自ら言う事に感動したからである。そして、放課後に資料整理室に忍び込んだのだが、ここで問題が起きた。誰もいないと思っていた資料整理室には人が居た。幸いその人物は机につっぷし、イビキをかいて寝ていたから助かった。侵入者は既存者にすぐに気づいて、起こすことなく引き返す事に成功した。既存者が誰かわからなかったが、王手が学校のどこかでその背広姿を思い出し、先生の1人ではないかという推測にいたる。誰か確認するために、二人は隠れて、南館から唯一外に出る事が可能な渡り廊下を観察する事にした。夕焼けが沈みかけ、もう今日は帰ろうかという提案に二人が合意したとき、その者は現れた。
賀川豊彦――道徳の教師、ないしカウンセラーであり、校内で時折見かける青年。中学校なのに常に紺の背広を着ているから、あだ名はリーマン。サラリーマンよろしく、見事な七三と、子供にたいしても丁寧すぎる言葉を使うので、その名を呼ばない者は少ない。そんな特徴的な青年だったが、二人は後(のち)二つの理由で覚えていたので、彼という事に全く気づかなかった。
賀川は正直いつどこにいるか解らない先生だった。道徳の教師として、たまに授業をしたり、カウンセラーとして定期的に保健室に現れるのだが、それ以外の行動は謎だった。王手は派遣社員的な存在だと考えていたが、どうやら違うようだ。第一回進入以来、中での様子に聞き耳を立ててから入る事にしたのだが、毎回のように、誰かが居る事に気づき、毎回のように、誰かを監視していると、それが賀川である事を知った。
だから、賀川が、明らかに授業をしていると解る時に、王手は忍び込もうと考えた。カウンセラーとして保健室にいる時は、布入がクライエントであるため猛反対された。――もちろん、前者でも布入は反対したが。後者では泣いて反対されたので、王手はなんとか前者で説得しすることにした。そして、説得する事4日間。ついに布入は「勝手……する……もう……知らない」と怒った声で、鍵を突き出してきた。
今は休み時間、王手は渡り廊下を静かに思案しながら歩いている。――ただ単に、未来の想像に楽しんでいるという様子ではないようだ。