聖典ラプンツェル
姫はまた、政務に関しても聡明な知識を持ち合わせていた。目立った口出しはしないものの、ここぞというときには的確な言葉を夫である国王に授ける。それらの知識は彼女の育ての親である魔女から教わったものだったが、姫、つまりラプンツェルはそれを最大限に活用した。自らの地位を磐石にするためだ。彼女は美しいだけでなく、利口でもあったのだ。
やがて新王妃に反対する勢力は、時とともに沈静化の道を辿っていった。
そんなある日のことだった。
いつものように王妃が朝の御前会議を終え、自室にて侍女に爪を磨がせていたころである。
ひとりの女官が、失礼いたします、と部屋へ入ってきた。
「王妃様、申し上げます」
腰を折った女官は、顔をあげると少々困惑した様子で口を開いた。
「その……王妃様へ面会を願う者がおいでです」
「まあ、どなたかしら」
こんな時間に面会とは珍しい。貴族たちは大抵夜に求めてくるし、廷臣であれば王妃の私室ではなく公的な外宮にて用件を述べる。万が一私室へ直接の面会とあらば、それは国の密議に関することで、そういう場合は王も臨席するのが常である。
カナリアがさえずるように可愛らしい声音で尋ねる王妃に、女官はやはり困惑したまま答える。
「それが……なんでも、王妃様の生みのお父上と名乗られる方で……」
途端、ラプンツェルの心に衝撃が走った。
父。父ですって。
わたしの、お父様。
「………そうですか」
王妃の独り言ともつかぬ言葉に、知らせにきた女官はこくりと頷く。父と名乗っている以上、無碍にするわけにもいかない。けれどとても王妃の父とは思えぬみすぼらしい身なりの男。彼女の態度からは、父と名乗る男に対するそんな感情が見て取れた。
「いかがいたしましょう?」
女官が尋ねるのも無理はない。彼女の真意は、このまま追い返しましょうか、といったところだろう。
だが王妃は立ち上がる。
「会いましょう」
え、と目を瞠る女官たちを見渡し、王妃はこの世の天使ともいわれる柔和な微笑みを、そのかんばせにたたえる。
「わたくしの父と申される方なのです。おそらく、幼い頃に亡くした子の面影をわたくしに重ねているのかもしれません。国民の幸せを守るのは王族たるものの義務です。ならばその方にお会いして彼の幸せを守って差し上げることもまた、わたくしの義務といえるでしょう」
目の前に現れた王妃を前に、父と名乗る男はおいおいと泣き崩れた。
そんな初老の男を王妃ラプンツェルは冷静に観察する。もちろんその表情には笑みを刷いており、傍目からはかわいそうな国民に慈悲を与える王妃の姿に映ったことだろう。
なるほど、確かに魔女から常々聞いていたとおり、みずぼらしい男だった。この男の女房ならば、欲望に負けて魔女の菜園から盗みを働くのも頷ける。
「面をあげてくださいませな」
王妃は柔らかな声をかけた。
「ああ……ラプンツェル……立派になって……」
そう言って眦に光るものを浮かべる男に、ラプンツェルな内心悪態をつく。
よくわたくしの前にその顔を晒せたこと。わたくしを棄てたくせに。魔女に渡して、命乞いをしたくせに。
本当なら今すぐ衛兵に命じてその心の臓を毒矢で射抜いてしまいたい。けれど、それをすればこの男が父親であることをラプンツェルは自ら認めてしまうことになる。せっかく手に入れた地位なのだ。そしてこの城は魔法に守られている。魔女の手の届かない住処と、自分を愛み、慈しんでくれる夫。あたたかい毛布と、傅かれることへの優越感。
これを失ってしまうほど、ラプンツェルは愚かではない。
「わたくしが立派に見えるというならば、それは全てここにいる城の皆様、廷臣の方々、そして何より、陛下のおかげですわ」
ラプンツェルは敢えて両親という言葉をそこに入れなかった。
「ああ、陛下には感謝してもしきれない」
それなのに、そんなラプンツェルの思惑にも気づきもせず男は父親面をしてそんなことを言う。
涙をぬぐう男に、ラプンツェルは心の中で不快感を滲ませる。
何の権利があって、この男に国王に対して感謝などと傲慢な言葉を吐くことが許されるのか。
この男はわたくしを見捨てた。そして王は、あの塔からラプンツェルを救い出してくれたのである。
「感謝? 何をおっしゃいますか」
その声音は、これまでになく柔らかみを帯びていた。
「陛下はもったいなき愛をわたくしに授けてくださいます。そしてわたくしもまた、陛下をお慕い申しあげております。そしてこの国を、愛しております」
王妃の勿体無き言葉に、その場に控えていた召使いたちの目許が潤む。こんなに美しく慈悲深く、そして聡明である女性を国母にいただくことに、人々は皆感激し、王妃の言葉に一番大切な人――つまり生みの親――が抜けていることなど誰も気がつかない。
「わたくしは、ただただ恩返しがしたいだけなのですわ」
そうして男を見つめる。完璧だった。ラプンツェルはつまり、王妃として男の勘違いに付き合った。そういうことである。
王妃がこの男に面会を許した経緯を知る侍女や女官、それに召使いは、一介の農民風情の男に慈悲をくべる王妃に感涙した。そしてこの件でもって王妃の地位は一層確かなものになったのだ。
「用件は以上ですか?」
立ち上がった王妃が相変わらず他人行儀なことに、ようやく男は気づいたようだった。
「え、あ、はあ……」
「そうですか。ではわたくしはこれで」
そうして踵を返した王妃は、最後に一瞥を男にくれる。
それは自分を裏切った実の父親へ向けての、最初で最後となる娘としての眼差しだった。
「これからも一層、国のため、陛下のために励みなさい」
ラプンツェルが一瞬向けた、氷のような双眸。
それは本当に一瞬のことだったから、気づいたのはおそらく実父の他にはいないだろう。
そしてそれこそが、父親に対するラプンツェルの答えだった。
わたくしは、決してあなたを許しはしない。
長いドレスの裾を引きずりながら下がる娘の後姿を呆然と眺めながら男は膝をつく。
「わたしはなんと愚かなことを……」
引きずられるようにして城を後にする男の姿を、王妃が知ることはなかった。
そして、美しい国母をいただいたこの国は、この後とある聖水の売買でたいそう栄えたのだという。その陰には国王を支える王妃の存在があったというが、詳細は現存する書物には残ってはいない。