最愛なる倦怠
「これが貧民窟というものか」
セルジュは遠慮無しの声量で云った。アダムはちらりとこの空気の読めない大陸人を見て、それから答える。
「ああ、そうさ。酒煙草、それ以上のものが溢れかえるお前の望む場所だ」
「そりゃ結構」
くるりとステッキを一回転させる。これは気分が乗ってきたときのセルジュの癖だ。ああ、ここに連れて来て良かった、アダムは思った。
事の発端は、安い売春宿でのやりとりだった。
久しぶりに海を渡ってきたセルジュは、この国の女が見たいと云いだした。そもそも大のアングロ・サクソン嫌いを(殊女に関しては)公言して憚らないこの男がなぜそのようなことを云い出したか理解に苦しんだのだが、どうも最近本国で目にした素敵なご夫人がこの島の出身だったらしい。それで、アングロ・サクソン女への見解を改めた彼は、ちょっとつまんでみたいと思うに至ったそうだ。
しかしながら、アダムは思う。
それは貴族の話で、正直貴族同士の相違なんて、階級の相違に比べれはそう大したことはない。つまり彼はそのご夫人をブリティッシュだと認識しているようだが、おそらく彼女はほとんどフランス人と変わりないだろう。同様に帝政オーストリア人とだってそう違うとも思えない。
それほど根が深い話なのだ、階級差は。自分達とこの貧民窟の住人は永遠に同じ言葉を話すことはないだろうし、彼らは大陸と戦争でも生じない限り、自分達とアダムが同じ国の人間などという事も考えないだろう。
アダム自身、ここにいる人間よりフランスの貴族のほうがまだ理解しあえる。いや、まだなんてことはない。十分理解できる。
まあ、とにもかくにも女を所望された若きフランス貴族は、そこで驚愕した。
フランス語が通じないのである。
彼は、教養はあるが、あまりにも貴族的であった。
この大ブリテン島でフランス語が通じると信じて疑わなかったのである。それは今まで彼が出会ったイギリス人が貴族、もしくはそれに準じる知識階級だっただけの話である。
こうして売春宿を早々に後にし、二人は貧民窟に赴いた。
セルジュの、「アヘンというものが見てみたいな」という一言で。