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島の左近

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島の左近

 慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)――。
 その日は、彼の有名な「関ヶ原」の戦いが起こった。
 豊臣政権を死守すべく挙兵した石田三成ら西軍と徳川の世を作るべく挙兵した徳川家康ら東軍との天下分け目の決戦だった。
 早朝四時に合戦の開会を宣言する式を、そして六時より始まった合戦は、しかし実質その二時間後まで深い霧に覆われ睨みあいの状態を続けていた。
 そして、午前八時……。
 開戦を告げる両軍の法螺貝がけたたましくなり響く。
 石田三成ら西軍……その数、約八万四千。対して、徳川家康ら東軍約十万。数字を見ても分かるように、西軍は不利な立場に置かれた関ヶ原の戦いだったが、さらに追い討ちをかけるように九州の鬼島津として恐れられていた島津義弘が率いる千五百の兵が沈黙。また、午後二時を回った頃、故太閤(豊臣秀吉)の正室・北政所(一般的に「おねね」と呼ばれている)の甥に当たる小早川秀秋をはじめとする諸大名の相次ぐ裏切りにあい、また、四国の長曽我部盛親など遠方に陣を引いた傍観組みが現れるなど、その数を三万五千と減らした。
 そして、午後三時を回る頃には西軍の敗北は確かな物へとなった。
 敗北した西軍武将は、討死する者や、敗走する者も相次ぎ、それぞれが蜘蛛の子のように散り散りになった。敗走する者の中には石田三成の姿もあり、近くの農村へとその身を隠した。しかし、賞金を掛けられ金に目が眩んだ隣村のものに通報され縄目にかかる。関ヶ原開戦から、六日後の九月二十一日(十月二十九日)のことだった。
 そして、十月一日(十一月八日)。石田三成は四十一という短い生涯に幕を閉じなければならなかった。

 この関ヶ原の戦いに、一人の西軍武将が参戦していた。
 島左近清興(以下 島左近)である。
 島左近は西軍武将・石田三成に仕える筆頭家老だった。この関ヶ原の戦いでは西軍の最前線で陣を引き、開戦から数時間を同じく前線に陣を引いていた蒲生卿舎らと共に東軍の黒田長政隊五千四百、細川忠興五千百を相手に奮戦した。
 後に、左近と刀を交えずとも、戦場でその姿を見た者たちは夜な夜な頭に左近の「かかれぇっ!」という叫び声が蘇り、身を震わせたという。それほど左近の勢いは強く、前線部隊はそれ以上の進行が出来なかった。
 しかし、先に述べたとおり西軍武将の裏切りによる東軍武将の勢いを殺すことが出来なくなり、敢え無く敗退。
 島左近は命からがら京の町へと逃げ延びた。

◇ ◆ ◇ ◆

 島左近は、大和国(現在の奈良県)出身であり、大和国の大名・筒井家に親子二代に渡り仕えた武将である。
 幼い頃から中国の孫呉の書を読み、兵法に通じていた。また、筒井順慶の代に仕えていた頃には松倉重信右近と共に「右近左近」としてその両翼を務め武功を挙げた。
 しかし、筒井定次へと代替わりしたとき、意見の不一致により追放・浪人することと成った。それから何年か流浪の人生を送り、その間に彼の有名な武田信玄のもとに身を寄せ、彼の兵法を学んだり戦場を駈けたりと多くの経験を踏んでいった。そして、紆余曲折を経て石田三成のもとへと身を寄せた。
この時、三成は二十三、左近は四十三だった。その差は二十。
最初、この年の差に周りのものはすぐに左近は三成の下を離れるだろうと予想していたが、それは杞憂に終わった。左近は浪人の間に世間を渡り、様々な知識を身につけた。また、いくつかの戦場も経験していたことから、戦場を詳しく知らない三成をよく補佐した。

 左近が三成に仕えるようになって、十三年の月日が流れた慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)。遂に農民から天下人まで異例の出世を遂げた太閤・秀吉が病によってこの世を去った。秀吉、六十一歳の酷い残暑の秋のことだった。
 秀吉の死後、三成は大阪城天守閣へと家来数名を伴いのぼった。もちろん、その中に左近の姿もあった。
 当時、秀吉が建設した大阪城は現在残されている大阪城とは比べ物にならないほど巨大な城だった。そう、日本一の高さを誇る城だと言える。現在残されている大阪城は、秀吉の建てた大阪城を壊し、その一部に徳川家康が再建させた小さな城に過ぎない。そんな日本一高い大阪城天守閣から大阪の町を見下ろした三成は、こう言った。
「過去百年。この日ノ本の国は、乱世という戦禍に見舞われた。しかし、その戦禍は故太閤様の尽力により、こうして平定された。見よ、この大阪の町を。どうだ、町人は生き生きと町を行きかい、商人は商いに精を出している。これも全て、故太閤、秀吉様の偉大さゆえ。町人たちも、明日の幸せを豊臣に願っているはずだ」
 熱を込めて言う三成に、家来は一様に頷く。
「まさにその通り」
「左様。さすが三成様だ。よくお分かりで」
 そう三成に同意する者たちの中でただ一人、左近だけが眉間に皺を寄せていた。
「どうしたのだ、左近よ」
 それに気づかない三成ではない。
 己が右腕の浮かない顔に、疑問を抱く。
「……殿、今申せられた言葉。まさか、正気……ではございますまいな?」
「正気だが?」
 左近の言葉に、二つ返事で答えた三成に、左近は息をつく。
「よろしいですかな、殿。たしかにこの大阪の町は繁昌しております。元来、権力者の支配する領地には人は寄ってきます。しかし、それは何もその権力者を慕って集まる者ばかりではございません。ただ繁昌しているから。商いがしやすいから。そんな理由でも人は寄ってきます。つまりは、繁昌すなわちその権力者の人徳の厚さを現しているわけではありません。……この大阪の町から少し離れた“外”をご覧ください」
 左近は天守閣から遠く大阪の“外”を指差す。そこには、肉眼では判別できないにしても身なりのみすぼらしい人々が生活していた。
「どうでございましょう、殿。大阪の町より二里、三里と離れてしまえば、そこには雨風を凌ぐ事も出来ない家々が立ち並び、その日の食に喘ぐ民がいます。確かに、そのような者たちも皆笑顔で暮らしているのであれば、皆が豊臣の天下を敬い、望むでしょう。……残念ながら、今の情勢ではそれは不可能。殿は故秀吉公の恩と口にしますが、それだけでは人は、民は動きますまい」
 左近は口を噤んだ三成の目をじっと見つめて、さらに続けた。
「よろしいですか、殿。頭のよい人間は、自信が凡人に比べ高うございます。そして、その自信は独断を生み、人々に押し付けてしまうことがある。……独断では、かえって誤解や反感を買いますぞ。重々お気をつけくださいませ」
 全てを話し終え、左近は頭を下げた。
 今の世は秀吉の恩のおかげであると考えている三成と違い、左近は冷静な目で今の情勢を見つめていた。
 石田三成は、責任感が強くまっすぐな性格の持ち主だった。また、その両の目は普通の人よりも多くのモノを見つめることが出来た。
 三成を全く知らずに家臣に加わった左近は、仕官してから暫くは三成という人間を見ることに専念した。その間、三成が故太閤・秀吉をどんなに敬い慕っているか、また、そのまっすぐな性格と見えすぎている目を持ったがためにいらぬ恨みを買いやすいところが多々あることを学んだ。
作品名:島の左近 作家名:ちょん