赦し
先にその香りに気づいたのは彼女だった。
ブーツを脱ぐ素振りも見せずにマンションの狭い玄関の前で立ちつくす。どうしたのかと後ろから覗き込むと、その整った顔が少しだけいぶかしげに歪んでいた。
「花の……匂い?」
「ん? ああ、前に使ってた芳香剤だな。香りが強すぎて捨てたけど」
動揺を笑顔の裏に隠してドアを閉める。
小さな部屋を興味深そうに見渡している彼女。百合の花のような白いワンピースが目の前で揺れている。生粋のお嬢様から見ればウサギ小屋だろうが、これでも不要なものは全て捨てて可能な限り見栄え良くしたつもりだ。
彼女の口元に笑みが浮かぶのを確認した後、鞄を置いてキッチンへと向かう。
「コーヒーでも飲む? それともアルコール?」
「雅弘は?」
「俺は美幸に合わせるよ」
「じゃあ、ワインがいいな」
「OK」
ワイングラスを重ね合わせ、はにかんだような微笑みを見つめながら、彼女が処女だという何の確証もない噂を思い出す。初めてのキスからここまで1ヶ月の時間を要した。今夜こそは覚悟を決めている筈だと信じるしかない。
彼女と語らいながら、頃合いを慎重に見計らう。
「この匂いって、スミレだよね」
不意の言葉に俺の笑顔が少し崩れた。
意識の外に追いやろうとしても、その香りはずっと俺と彼女を包み込んでいたのだ。
「ああ、そうだったかな」
先程それが芳香剤の残り香だと告げたのを思い返しながら返事をする。
「佳子さんの付けていた香水にすごく似てるわ。スミレの香水だって言ってた」
悲しみが滲んだ言葉。彼女の先輩であった鹿嶋佳子は、半月前に自殺していた。
姉妹のように仲が良かったから、仕事以外の相談もいろいろしていたのだろう。葬式の時は家族よりも号泣していたと思う。
美幸の言う通り、この香りはあの香水のものと全く同じだ。
俺はそれが何年も前から使われ続けていたことを知っている。その最初が誕生日プレゼントであったことも知っている。
「佳子さん、お腹に赤ちゃんがいたんだって……」
「そうみたいだな」
「不倫してたって……本当かな?」
「分からない。でも、たぶん相手に望まれていない妊娠だったんだろうな」
会社の噂では不倫の末の妊娠だと言われているが、その相手が誰なのかを知っている者は当人以外に存在しない。
「ずっと苦しんでいたんだよね。それなのに、私……」
「仕方ないさ。美幸は悪くない」
涙ぐんでいる彼女の肩を抱き寄せ、ワインで濡れた唇を交わした。
部屋に漂い続ける香りに惑わされ、ベッドの上で誰を抱いているのか何度も間違えそうになる。
シーツの上に広がった長く艶やかな黒髪と、可憐な唇から漏れ出す甘い喜悦の声、しっとりと汗ばんだしなやかな肢体を愛しながら、享楽的な快感に身を委ねていく。甘美な悦びへの期待に潤んだ瞳の中に理性を沈め、紫色に染められていく心を解放しようと無様に腰を振る。
その花言葉が「小さな幸せ」だと聞いたことがあった。
踏みにじられたソレが赦しの芳香を放つという格言を話していたのも思い出した。
美幸と出会うずっと前の話だ。
これが”赦し”なのだろうか。
俺には分からない。
「ねえ、雅弘」
美幸が動きの止まった俺の耳元に唇を寄せた。
「私ね、本当は知っていたの」
内緒話をする子供のように囁く。
どうやら、赦しが必要だったのは、俺だけではなかったらしい。
息苦しい程に濃くなっていく香りの中、これまで見たことのない笑みを浮かべた彼女がいた。