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妖精の涙

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「それなら、明日もう一度来ることにするぜ」
 まとまらなかった商談に、男は愛想良く人好きのする笑みを浮かべた。
 目を瞠るような立派な体躯の持ち主だが、間違ってもこの界隈に姿を見せるような、裏社会を堂々と渡り歩く無法者らしい厳つい印象はどこにもない。しかし大抵の男でも少し目線を上げなければならない長身を引き絞った身体は巨漢とはいえず、かといってただの痩身であるともいえない。黒曜石の目が鋭く周囲を見渡し、素早くその場に相応しい身の振り方をするところも、この暗がりでも足音一つ立てることなく、長身が嘘のようにひっそりと帰っていく様子も、ただの男であるとは誰も思えなかった。
 男は深夜の町で、暗い闇の中を苦もなく音を立てずに歩く。
 あまりに闇の濃いそこは、人間ならば普通は足を踏み入れようとはしない。いくら道を知っていても、闇というのはそうして人を脅かすものなのだ。それに、こんな濃い空間には妖魔がでないとも限らない。彼らは人里には下りてこないものだが、男は直感的に、この街には妖魔が出るのだと分かっていた。
 それならばちょうど良い。
 男はさっき商談にかけてまとまらなかった財源――この世の最高の秘宝とまで言われている『天使の涙』の原石をあえて懐にはしまわず、てのひらで弄びながら、一寸先も闇に包まれているその道をしっかりとした足取りで進んでいった。空いている右手は油断なく腰に触れたままだ。
 間もなくして、ほんの一瞬の間にそれが消えた。
 実際には空を切る音が男の耳に届いただけで、弄んでいた石はあたかも突然消え去ったようにしか見えない。
 なるほど、さっきの宝石商が、なぜか歯切れの悪い口調で盗まれないようにと注意してくるはずだ。こんな見事な手腕では、たとえどれほど腕に覚えがあろうとも、盗難事件は後を絶たないだろう。普通ならば確実に盗まれる。実に見事な早業だった。
 だが、この男は生憎とその『普通』には当て嵌まらなかった。石が消えるのと同じ瞬間、男もまた目にも留まらぬ速さで駆け出していたのだ。
 速い、と思った。この闇の中で、しかもこの速さで疾駆できる者は人間ではない。鍛え抜かれた間諜者でもこうは動けないのを男は知っていた。
 これは間違いなく妖魔の類だ。ともすればこの自分が引き離されそうになることに、男は目を瞠っていた。
 遠ざかろうとする気配に食らいつきながら抜刀し、明らかな殺気をぶつけた。普通、こうするか背を見せれば、妖魔も足を止めて好機とばかりに攻撃してくる。妖魔というものは相手の技量を考えるほどの知能はない。ただ殺気や恐怖などの人間の強烈な感情を感じ取って攻撃に転じてくるのだ。そこを狙って斬り伏せようと思ったのだが、この妖魔は違った。
 僅かに怯んだような気配が闇の向こうから伝わってきた。
 恐怖という概念を持たない妖魔にはあるまじきことだけに、男も驚愕に手が止まりそうになった。だが、そこで好機を逃すほど未熟でも甘くもない。
 素早く隙をついて斬り込み、相手を両断しようと剣を奮った。
「きゃあっ!」
「何?」
 狙った太刀筋を無理矢理回避させて剣を引き、とっさに細い手首を掴んだのは、いくら男が腕に覚えのある剣豪でも至難の業だった。というよりも、この男だったから辛うじて踏み止まることができたといって過言ではない。
 無造作に触れただけで折れてしまいそうな、細い手首だった。だが、それにも構わず強引に引き寄せて足を止めると、男は初めてその姿を確認したのである。
「子ども……?」
「わ、や、あの、放してっ……!」
 男はじたじた暴れるその子どもの顔を初めてじっくりと見つめた。
 人形かと思うような、目鼻立ち整った、愛くるしいという言葉がぴったりの女の子だった。しかし、くっきりと縁取られた大きな空色の目も、小さな輪郭を縁取る髪もどこか悄然としている。健康な子なら見事な銀髪だったのだろうが、今は灰色っぽく見えるし、色白の頬もこの暗闇でもわかるほどに青白い。
 見ているこっちが気の毒になるくらい、病弱という印象が強い子どもだった。
「……誰だ?」
 それでもこの闇を、男と同じか、それ以上の速さで駆けた実力は人間ではない。捕まえた少女があまりに怯えた顔になっていたので、うっかり手を離しそうになったが、辛うじて踏み止まって詰問した。その喉元に切っ先を突き付けることは忘れない。
 少女は悲鳴を飲み込んで自分を捕まえた男を見上げた。
「ごめんなさい……」
「誰だと訊いてるんだ。謝れとは言ってないぜ」
 もう一度強い口調で詰問すると、少女はぴくりと肩を震わせた。それから恐る恐るといった体で盗んだ包みを男に差し出す。
 これで許せということか。
 男は無言でそれを受け取り、掴んでいた手を離してやった。そのとたん、少女はくるりと背を向けて闇の向こうへ走り去った。
 逃げるような行動だった。だが、恐ろしく素早い。
 あんなに人間ぽい妖魔とは、人より少しだけ腕っ節の強さに覚えがある男でも出会ったことがなかった。
 精霊の類か、それとも高等妖魔か。男が憶測した少女の正体はどちらかだった。
 とはいえ、少女は実体だった。精霊というものは幽霊のような存在で、さっきのように体に触れられる生き物ではない。人によれば目に触れられる存在でもないのだ。だからすぐさま前者の考えを排除したが、かといって高等妖魔のようにも見えなかった。
 妖魔にも階級というものがあって、普通人里を襲うような妖魔というのは、得てして低級妖魔が多い。高等になると、そういった低級妖魔を餌にするものが多いから、わざわざ非力で魔力のない人間を襲うなど、無駄は働かないものだ。
 それに、高等になればなるほど頭がよくて、見目形も人間から言わせれば、非常に慣れ親しんだ美しいものになる。大体は美しい女性や男性の形をしているものだから、少女もあれの類かと考えたのだが、どうも彼女にはその気配が感じられなかった。つまり、妖魔特有の瘴気にも似た嫌な感覚だ。むしろ、確かに感じたほのかな気配は、非常に神々しくさえ思えるものだったのだ。
 ――あれは一体なんだ?
 仕方なく、取っていた宿に戻って寝台の上で考え込んでいた男だったが、悩んだところで答えは見つからない。
 石は取られずに済んだのだから、このままこの件は捨て置いても良かったのだが、どうもそれではいけないと直感が悟っていた。そして男は、自分のこういった直感を信じている。
 原石の鑑定が終わって実際に換金されるまで、少し時間がある。その間の暇つぶしとしてあの少女のことを探ってみるのもおもしろいか、と決めて、数時間の眠りに落ちたのだった。
作品名:妖精の涙 作家名:愛菜