腐り落ちていく音がする
煙草なんてはっきり言って二十歳未満だからこそ吸いたくなるものだと思う。
本当に二十歳未満に吸わせたくないなら、あんなに大々的に「未成年喫煙禁止」なんて書かなければいい。子供なんて「するな」と言われればしたくなる生き物なんだから、禁止することは寧ろ逆効果だ。そうじゃなかったら、とりあえず自動販売機での煙草の販売は今すぐにやめるべき。誰の目もないところで買うことの出来る場所を設置しておく時点で、「吸いたければ、吸えば」と言っているようなものだ。
まあ、俺もその典型で、どう見ても二十歳未満に見えない外見の恩恵を存分に受けて、今こうして喫煙しているわけだけども。
親は共働きでどちらもヘビースモーカーだから、家に俺しかいない間に吸殻が増えていてもそこまで気が回ることもないし、既に家の中は煙草のにおいが充満している。親父が吸ってるのがセッタでお袋がマルボロ、俺がラッキーってのが痛いけど、まあ箱だけ隠しておけば大して問題ない。
未成年喫煙大国。日本政府も大概に頭悪いね。まあ、煙草の税金で潤ってんだから、そうそう規制するわけにもいかないんだろうけどね。難しいねえ、政治ってのは。
十三歳で始めて、現在十七歳。俺の肺はすっかり真っ黒に染まっていることだろう。肺がんへの一番の近道。きっと俺の死因は肺がんだろうなあ、なんてこの年齢から分かってしまうのも、なんだか馬鹿馬鹿しい。
十三歳、という年齢をふと頭に思い浮かべて、そういえば、と懐かしい顔が脳内に浮かんだ。
当時の俺の彼女。中学生の恋愛ごっこみたいな関係だったけど、今思えば一番「彼氏と彼女」らしいことをしていたと思う。授業中に一瞬だけ目をあわせたり、毎日一緒に帰ったり、休日に遊んだり、俺のバスケの試合があれば彼女が応援にきたり、俺の部屋でかすめるだけのキスをしたり。青春という言葉がまさしくしっくりくるような関係。ゴムつけろだの子供ができただの、そういう面倒臭さの無い、いわゆる清く正しいお付き合いってやつだ。十三歳から十四歳までの一年間をその子と過ごした。名前は確か……あれ、名前なんだっけ。当時はあんなに好きだったのに、名前も忘れるなんて。俺、そろそろ痴呆? 勘弁してくれよ。
思えば、俺の喫煙に反対してくれた唯一の子だった。
「だめだよテツ、煙草は中学生が吸っていいものじゃないよ」
そう言ってまじめに怒っていた。じゃあ何で二十歳になったら吸っていいの、って俺が聞いたら口ごもってしまったけれど(そう、俺はこれが未だに謎だ。二十歳になった瞬間に体の構造が変わるのか? 教えて偉い人)、それでも彼女は意見を変えなかった。俺が煙草を持ち歩いているところを見るたびに顔をしかめて、「だめだよ」と言った。
「私、テツに体壊して欲しくないよ」
「いたって健康だよ、俺」
「今だからだよ。大きくなったら、どうなるか分かんないよ」
「大人になった時のことなんて、どうでもいいじゃん」
「よくないよ。じゃあ例えば、私のお腹にテツと私の子供がいても、テツは私の前で煙草を吸うの」
「……それは、多分吸わない」
「でしょ。分かってるんでしょ、体に悪いの。私とテツの子の体は考えてくれるのに、何でテツは自分の体のことを考えないの」
「……わかんない」
「テツ、お願い、煙草なんてよくないよ。少しもいいことないよ。やめようよ」
泣いて懇願されたこともあった。今思えば、我侭も殆ど言わなくて、控えめで、あまり自分の主張をしない子だったのに、あれだけは頑なに訴えてきた。始めたばかりの煙草をやめることくらい、あの頃なら出来ただろうに。何で俺はあんな些細な望みも聞いてやらなかったんだろう。
「……でも、もう遅いんだ」
そうは言いつつも、禁煙に遅い早いもないことなど分かっている。実際問題、俺の体はどっぷりとニコチンの海に浸かっていて、そこから抜け出すことは簡単ではないだろう。しかし、それは決して不可能ではないのだ。その苦悩は、禁煙の経験のない俺に計り知れるものではなく、正直想像するのもイヤになる。だがそれは「不可能」ではなく、間違いなく「可能」なことなのだ。今からでも、やろうと思えばいくらでも可能なのである。
だが、今ここで俺が口にした「遅い」の意味は、禁煙をするか否かという話ではない。
「今俺が煙草をやめたところで、あいつはいないわけだし」
今の俺の彼女は、俺と同じくらいヘビースモーカーで、俺が禁煙すると言ったら間違いなくイヤな顔をするだろう、そういうタイプの女だ。寧ろ俺にクスリをすすめてくるくらいだから、俺より性質が悪いのは間違いない。
いまや俺の体は、ニコチンとタールとスピードによって、完璧に濁ってしまっている。
今更禁煙したくらいで何が変わる? 何も変わらないだろう。もう、肺は腐りかけ始めているというのに。
「……もう遅い」
もうあいつは居ない。十四歳のクラス替えで離れて、そこから疎遠になって自然消滅した。別れるとも何とも言わないまま。まあ、中学生なんてそんなものだろうと思う。
だから、もう、いいんだ。今あいつが俺の隣にいれば、俺は煙草をやめていたかもしれない。自分の体を痛めつけることをやめ、俺とあいつとあいつの子のために、健康ってやつに気を使っていたかもしれない。
でも、所詮可能性の話、空想の話、実現されることのない話だ。
思わず、笑いが声に出た。噛み跡のついた煙草を右手の指にはさんで、灰皿に置く。煙が立ち上がって、天井にぶつかる。見上げれば、当然のように我が家の壁は黄ばんでいた。
「……馬鹿みたいだ」
呟いた言葉は、煙草の煙と同じように空気中に飛散して、消えた。
半年後、長期休みにも関わらず制服に身を通す機会があった。面倒だと嫌がる足を動かして、家を出る。ただでさえ重い制服が、いつも以上に重く感じた。
向かう先は、葬式だった。
名前も忘れていた、俺の、昔の彼女の葬式。
「大場初子 通夜」
ああそういえばそんな名前だったな、とぼんやりと思い出した。「中学生の時、仲良くしてもらったから」というあいまいな理由で呼ばれたことが目に見えていたので、最後列の左端に座った。
彼女の死因は、肺がんだった。
何もかもがあまりに馬鹿馬鹿しくて、俺は葬式の帰り道、持っていた煙草とライターを全部川に投げ捨てた。環境? くそくらえだ、そんなもの。
それから程なくして、俺は煙草をやめた。クスリもやめた。彼女とも別れた。女とヤる機会があった時は、ゴムもつけるようになった。
あまりに馬鹿馬鹿しかったから、全部やめてやった。何が未成年だ。何が子供だ。死と生を分かつ境目は、どこにあるんだ。
手に入れた健康な体は、思っていたよりもずっと快適で、思わず涙が出そうになった。
「これは俺じゃなくて、彼女が持っているべきものだったはずだ」
少しもいいことないよ、という彼女の言葉が思い出された。全くその通りだと思った。
作品名:腐り落ちていく音がする 作家名:みなみ