「食べたい」
その女は俺を見てそう言った。夕暮れの誰もいない教室に、只でさえよく通る声は異様なまでに存在感を持つ。
「食い潰したい」
黒い二つの眼球が夕陽によって赤みを帯びる。陽の色だと信じたい、そうでなければ血の色としか思えない。
「陵辱して蹂躙して殺して、血も肉も臓も、骨の髄まで残らず食い潰してしまいたい。……比喩だがね」
気分が悪くなり、俺は奴から一歩遠ざかる。しかし奴はツカツカと俺に歩み寄るとシャツの上から胸に触れた。否、掌を心臓の上に押しつけたといった方が正しい。そのまま何もかも透り抜けて心臓を引き摺り出されるようにすら思えた。
「よく比喩として"食う"だとか"寝る"だとか言うだろう? だから性欲は睡眠と食事で紛らわすことが出来ると思っていた」
俺は奴から距離を取ろうと再び一歩退く。ドン、と扉に背を打った。奴は先程と同じく、俺の心臓の上に掌を置く。
「残念ながら失敗だ」
ス、と空いた手で奴は俺の左手を取る。その手は戦慄する程に冷たい。俺は凍りついた。
「紛らわすということは、結局、後に大層なツケを残す自慰でしかないのだよ」
奴は恭しく左手を口元に運ぶと薬指に唇を寄せる。
「君の肉体も精神も、生命すら食い潰してしまいたい」
次いで指先を食む。甘噛み、痛みはないが徐々に奴の口内へ消えていく指を見ていると恐怖を覚える。生温く湿った舌が指に触れ、その付け根からベロリと舐め上げられて鳥肌が立つ。
「許されるなら、比喩なんかではなく本来の意味合でも」
音を立てて吸いつかれ、更には食い千切られると思わせる程に強く噛みつかれた。痛覚、反射的に奴を突き飛ばす。華奢な躰は蹌踉めいて、しかし倒れることはない。唇を歪め、ふふふ、と声を立てて笑う奴の存在に一気に血の気が引いた。寒気がして四肢が震える。
「食べたい」
窓から差し込む陽の逆光で奴の表情は見えず黒く暗い影が赤い輪郭を伴って、不気味な笑い声のみが響く。影に塗れた腕が伸びてきて、三度、奴は俺の胸へと触れた。
「有り体に言おうか」
逃げ出したいのに躰は動かず、声すら出ない。
「私は君に欲情している」
食われかけた左手の薬指がやけに冷えた。