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『智子。ホント腹立つから、朝っぱらから電話かけてアイツ怒鳴っちゃった。ごめん』
　寝ぼけた頭にすんなり入り込んできた声とは正反対に、内容は何度か反芻してようやく理解した。
　今、なんと言ったのだろう。
　智子、と名乗るのが彼女のいつもの電話のかけ方だ。いやそんなわかりきったことよりも、だ。
「誠一……を？」
「そうだよ、アンタの彼氏の誠一をだよ」
「ですよね！」
　タオルケットを蹴っ飛ばして、起きあがる。なんてことしてくれたの、と心の中で恨み事を言いながら出かける用意をしようと思い立った瞬間。
　インターフォンがなった。
　管理会社のおじさんが微笑んで「これ、女の子だから安心するでしょ」と言ってくれたインターフォン。鳴らした相手の顔が見える、インターフォン。
「来ちゃったよ……、ど、どうしよう智子」
『大丈夫、なんかあったら困るから今から行ってあげる』
「あった後じゃ遅いから、ね……？」
　わかってる、だか。アタシのことなんだと思ってんの、だか。言うのを最後に、電話は切れた。
　仕方なく、髪の毛をシュシュで手早くまとめて、チェーンと鍵を外して、開けて小さな声で「どうぞ」とだけ言った。そして見た誠一の姿に、私はまず驚くことになる。
　髪の毛、ぼさぼさ。柔らかくて手触りが良いけれど伸ばすのが苦手な誠一の短い髪には、寝ぐせがついている。眼鏡は部屋に入った途端曇り出した。外が寒かったんだろうな、と思ってぼんやりと私は（お茶淹れなきゃ）と思う。息が荒い。きっと智子がガンガン怒鳴って、挙句の果てに以前私の彼氏だった人に使った例の手を使ったんだろうと思う。
　例の手、とは「知里を泣かせたお前の所に、私が今から乗り込んで鉄拳制裁をする！」という脅し文句である。
「危害を加えることだけは、しないで、智子」
　危ないよ、智子が怪我したらどうするの。そう言う私に、しれっと「発破かけなきゃ動かないと思って」とか、なんとか。
　まったく、豪胆な女性である。

「ち、知里……あの、俺さ！」
「ごめん、誠一。あの、智子の言ったこと、あんまり気にしないで……」
「あ、いやあんまり気にしてない、と言ったらまた怒られそうだけど、違うんだよ」
　うだうだ、と迷走のやりとり。私もそうだけれども、誠一もなかなかに似たタイプの人間だと思う。
　話すことは可能だけれど、結論というかはっきりとした答えを出すのに時間がかかる。そうして揃った二人の間には、妙な空気と言葉が流れていく。
「……好きだって、なかなか言ってもらえなくても、俺が言う。ベタベタくっつけるわけじゃないけど、手はいっつも握りたいって思ってる。不老不死なんて俺には無理な話だから、一緒におじいちゃんとおばあちゃんになろう。もし気に入らない事があったら、智子さん越しでも俺に直接でも伝えてほしい……あと！」
「ま、待った。一気に言われても……」
「あと！」
　あせる私を無視して、誠一は汗を流しながらまっすぐ見つめて、まっすぐな声で一言。
「俺は、知里の作ってくれるオムライス、大好きなんだ！」
　言い切って、また息を切らす誠一が、なぜだかわからないけれど滲んでいる。
（また、だ。脆いなぁ……）
　そう冷静に捉えようとしながら、雨みたいに、なんてうまくいくわけもなく。頬をぬるいような、冷たいような水が流れた。
「……オムライスって、本当に凄いね」
　羽織っているカーディガンの袖で、頬を拭う。
「ホントさ、あのふわふわの卵とか、ケチャップの甘い香りとか、凄い」
　そう言いながら、目は拭っちゃ駄目だよ、と言わんばかりにそっとハンカチが押し当てられる。
「いっつも、喜んでくれるもんね」
「おいしいから。……知里は俺に心からおいしいと思える料理を教えてくれる。俺は……」
　何ができるかな、と困ったように笑う誠一は少し幼く見える。そんな誠一を見ながら、私は微笑んで今日午前８時にわかった誠一が私にできることを、くちにする。
「誰かのために、精一杯走れることだよ」
　凄い、と小さく口にした瞬間、手がしっかり握られて「これからも、走るよ」と誠一は笑った。
　ふと私は思い出す。そう言えば、誠一の趣味は散歩とマラソンだったなぁ、と。意外と体育会系で、高校では鬼の副部長、なんて言われてた、と聞いたこと。
　そして、心の底から思う。
（なんて、なんて眩しいんだろう、ね）
　これなら画面の向こうの彼女だって、惚れて無理はない。私は、そう心の中で思いながら外の冷気にやられて冷たい手をそっと握り返した。