閉塞世界
***
「レンリ!」
呼ばれた名前に振り返る。友情については深く狭くを心情としているおれの数少ない友人が両手いっぱいにダンボールを抱えて立っていた。名前を千早透と言う。
「何、その荷物。まだ双子移動してないだろ?」
「いや、それがさ。ヨウちゃんがまたポケットマネーで大量に新刊買い込んじゃって、自分ちに置く場所ないから蔵書にしちゃおうって」
「はあ? それもう今年で3回目じゃん。人生楽しンでんなーあのヒトはー」
ヨウちゃん、というのは、本が恋人と言って憚らない愉快な図書室司書のおねえさんだ。呆れ返ってもう笑うしかない、と言う感じ。ダンボールを持った千早と二人で乾いた笑いを零しあった。ひとしきり笑って、よいせと鞄を背負い直す。帰る気満々だったおれに千早があからさまに不満げな顔をした。
「……レンリ、帰っちゃうのかよ」
「なんでそんな寂しそうなのわざとらしいなあ」
「わざとじゃねーよ! 本心だよ! レンリひどっ!」
一息で言って笑ってやった。ムキイ!と肩を揺らして怒る千早にまた笑って、おれは明るく手を振った。
「そろそろ調停も終わるから、今日は早く帰んなきゃいけないのさ」
ぴたりと千早の動きが止まる。面白いくらいの反応のよさに笑いを堪えて、「そういうわけだから」と笑った。
「おれ今日は無理なんだ。またなんか埋め合わせするってヨウちゃんに言っといてよ」
「…りょーかあい」
ぶすくれたまま答えた千早に、とりあえずガンバレとだけ言って学校を後にした。
ただいま、と誰もいない部屋に向かって口の中で呟いた。親はいない。普段ならもう母親は帰ってきている時間だから、おおかた裁判所にいるのだろう。
おれの「家」は、今崩壊の危機を迎えている。
というか、現在進行形で崩壊している。
十何年も夫婦をやってきて、今更感覚のズレが露呈したらしい。我が親ながら間抜けだと思う。日常に亀裂が入り始めてから半年。世間は良くもった方だと称えるかもしれないが、板ばさみになっていたおれとしては唾でも吐き捨てて口汚く罵ってしまいたいくらいだった。
どうしてもっと早く、改善する努力、或いは新しくやりなおすという選択をしなかったのか。
ようやく離婚を決心したその次の朝、そう母親に問いかけたら、怯えるようにしておれを窺ってきた。
「だって、廉理(れんり)がいるでしょう」
ふざけるな、と。子供を言い訳にしないで欲しかった。去年から続けている妙に実入りのいいバイトのおかげで、一人暮らしをしていけるだけの貯金はあるし、そのバイタリティがないとも思わない。
一緒にいるのが苦痛になったのなら離れれば良いし、未練があるなら今の状況を改善する努力をすればいいんだ。
暗鬱とした気分でリビングのソファに鞄を放り出して、腰を伸ばして息を吐いたところで電話がけたたましく鳴った。ジト目でそれを睨めつけて、四コールで受話器をとれば、向こう側で母親が泣いていた。
『……廉理…?』
「どうしたの、母さん。なんかあったの」
しゃくりあげる気配。苛立ちを押し隠して聞けば、一瞬のためらいの後、涙に濡れた声がおれを呼んだ。
『廉理、お母さんとお父さん、どっちが良い……?』
「おれ一人暮らしするよ」
間髪いれずにその言葉は驚くほどすんなりと滑り出ていた。受話器の向こうで母親が絶句する。すこし離れたところで何があった、と高圧的に問いかけてくる父親の声があった。舌打ちしたくなるのをこらえて続ける。
「ちょうど学校の近くに良い部屋あったし、」
『廉理、本気なの…!?』
「おれはいつだって本気。それは母さんが一番知ってるだろ」
ふ、と息を吐く。まだ何か言いたげな向こう側をさえぎるように簡単な挨拶をして一方的に電話を切った。
もともとたまっていた上にさらに重なるようにしてかぶさってきた疲労に肺が空になるまで息を吐き出して、急激に渇いた喉を潤そうと台所へ足を向けた瞬間、無駄に明るいメロディで携帯が着信を告げた。
それは、底抜けにおせっかいで優しい友人が無理やり登録したメロディだった。
「ヨウちゃんのお手伝いじゃなかったのかよ、チハヤ?」
『もーそれがさー! 助けてレーンーリ────!!!!』
「はあ? 何、そのひどい声」
今日帰りにあったときはもう少しましな声だったはずなんだけど。電話越しというのを差し引いても、ガラガラの悲惨な声だった。
『ヨウちゃんがポカやってさ、廃棄寸前の古書と今日の新刊がごっちゃになっちまって…』
「うわ、ひっど…それでその声なわけか」
『しかもヨウちゃん逃げるしさ!』
「あ? あのヨウちゃんが? 嘘だろ」
知らず知らずのうちに眉が寄る。あの司書に限ってそれはありえないと断言できるのだけど。
『や、職員会議なんだけど。でも長引きそうなんだよなー』
「手伝いに行くか?」
『何とかなりそうだからヘエキ。……レンリ、大丈夫か?』
おどけたような声が一転してひそめられ、真面目な響きを帯びる。その急な変化がおかしくて、ついつい笑いがこぼれる。
「あはは、平気平気。そっちこそ平気なのかよ」
『んー、いいや。オレがんばる。だからレンリもちゃんと泣けよ? そして写メ送れよ?』
「うわっ、チハヤ、鬼!」
『だってオレ、レンリの泣き顔見たいし』
「………チハヤ、変態?」
『うっ、レンリにだけは知られたくなかった…って、んなわけあるかい!』
ベタすぎるノリ突っ込みに声を上げて笑う。短く礼を言って電話を切り、沈み込むようにしてソファに腰を下ろした。
顔を仰向けて、息を吐いたとたんに、あとからあとからあふれてくるものがあった。
生暖かいんだか熱いんだか判然としないそれをほったらかしにして、おれは気が済むまでとりあえず泣いてみることにしてみた。こんな風に泣くのは何年ぶりかなあ、と回想しながら。
確かに、自分の両親のことは愚かだと思うし、それに振り回される自分を馬鹿らしいと思っているのは真実だけど。
本当はおれだって、泣きたかったんだよ。