猫
「……リーン、ここ何階だっけー…」
「四階。おおかた木でも登って来たんでしょ、猫だし」
「ああ……猫だし………」
半ば呆然と納得した真を置いて、凛はさっさと本を置いて猫と戯れている。よく慣れた飼い猫のように凛の手に頭をこすりつけるその猫を見るのは、もう何度目になるだろうか。思いつきと勢いだけで移動させる“準備室”にあわせて、この猫はどこからともなく現れる。しつこく“準備室”に現れるからにはこの近辺に住処を持つ猫なのだろうというところまではわかるが、双子のどちらも、学校の、しかも“準備室”以外でこの猫を見たことがない。
「しかししつこいね、お前も。猫又かなんか?」
「いやいやそれはありえないだろー…」
「だよね、現代日本でいくら何でも……」
と、言いつつもあながち間違いではないのかもしれないと思う冴草の双子なのであった。
肯定しているのか否定しているのか、にゃあおん、と猫が甘えた声で鳴いた。
***
授業が終わって幾分か閑散とした特別教室棟を、弥部明(わたるべあける)はとろとろと歩いていた。部活に一切所属していない体は一階から四階までを階段移動しただけで既に悲鳴を上げている。
「運動したほうがいいかなァ……」
それにしても、今更この運動不足に一体何のスポーツが出来ると言うのか。
ぶつぶつと非生産的に呟きながら、弥部はがらりと“そこ”の扉を開けた。
「ちっす。双子いるか?」
「まあ、いないと思って来たなら明も相当ボケてきたってことじゃないの」
「おう今日も元気だなお前ら。殺してえー」
半眼で陰惨に笑う弥部に、双子はにっこりと穏やかに笑う。いつも通りの空気を感じて、彼はあっさりと諦め“準備室”へ足を踏み入れた。
棚と言う棚、机と言う机に整頓され並べられた本たちを慎重に避けながら、弥部は手近な椅子に腰を下ろす。
「まァそれはともかく。最近移動のインターバルが長いじゃん。どうしたよ?」
「別にどうもしてないけど、明の思い過ごしじゃないの?」
「ああ、そりゃお前に聞けばそう返すわな。真、なんかあったのか?」
「そこで俺に振るんだ…。何、俺ってそういうキャラ?」
笑い含みで聞き返した真へまあねと答えて弥部は小さく息をつく。どこから手に入れたのかわからない専門道具で本の修繕を行っていた真がその手を止めてこちらを向いた。
いつの間にか、双子の顔から笑顔が消えている。
「どうってことはないよ、ちょっと焦ってるだけで」
「焦ってる?」
首を傾げて繰り返した弥部にひどく面白くなさそうな顔をして凛が頷いた。ゆらゆらと揺らした猫っ毛の下では長めの睫が下向きに瞬いている。その視線の先でいつもの灰茶猫が丸まって気持ち良さそうに眠り込んでいた。
「……後継者が、見つからない」
むっつりとそれだけ答えて凛はくるりと弥部に背を向ける。相変わらずの無愛想に弥部は苦笑して、それから急に真剣な顔になって真を見た。
「後継者って言うのは、当然この“準備室”の『主』のことだろ? 見つからないって……お前」
「だから焦ってるって言ってるだろ。このまま俺らの代で“ここ”をなくしたくないし」
肩を竦める真の顔にも隠し切れない疲労が浮かんでいる。受験勉強の合間に“準備室”を動かし、更に後継者まで探さなくてはいけないのならそれはきっと、現在の図書委員の活動よりも苛烈なものだろう。
代替わりの時期は個々の当代に一任される。今の双子のように三年のギリギリまで『主』を続けた先達もいるにはいるが、やはり進路を考えて二年の終わりで代替わりをする先代たちの方が圧倒的に多いのだ。
それでも双子が敢えて三年まで『主』を続けたのは、単に“準備室”が好きだからと言う一言では片付かない。
学生の本離れが進む昨今、こんな面倒な役割を引き受ける酔狂な本好きは滅多にいない。純粋に後継者がいないのだ。
「……なんとかするよ。いざとなったら何でも出来ちゃうもんだし」
「アレなら図書委員から人材引っ張ってくか? イイの結構いるぞ」
「いらん。幼馴染みだからってそんな情けに縋ろうとは思わない」
毅然とした瞳で真が言う。ああ、と曖昧に返して弥部は笑った。
「それでこそお前らだよな」
「まあね……リンは寝てるけど」
「うお、いつの間に」
「リンだし。それよりも明だって、次期委員長決まったの?」
「ああ……そうなんだよなあ………」
頭を抱える二人を、いつの間にか目を覚ました猫が見つめていた。
猫は知っている。彼らが知らないだけでこの学校には随分と「酔狂な本好き」がいることを。
猫は見ている。放課後の図書室で彼らが後継者を見つける、そう遠くない未来を。
可能性はいつだって、しごく簡単に転がっているものなのだ。