乾いた血は鉄の匂いがするか?
自分が目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。漆黒という言葉がこれほどまでに似合う情景を見ることは二度とないだろう、思いながらアダムはカメラをまわした。空は曇っているのか、星もない。月も見当たらない。こんなとき戦士たちはどのように方角を確認するのだろうか。昔々、星座早見表を片手に星を見たことを思い出した。
あの頃は、世界がこんなことになるなんて思ってもみなかった。
左後ろに人の気配を感じ、フィルムを一度止める。振り向くとこの場に恐ろしいほど不釣合いなこどもがいた。
「君、どうしてこんなところに?」
慌てて駆け寄ると、こどもは一瞬戸惑った顔をして、それから合点が云ったような表情に変わった。
「私は民間人ではありません」
そのあまりに短い説明に、今度はアダムが戸惑った。
「えーと、それはつまり」
どういうことかな?
アダムが問いかけると、こどもはケープの内側からそっと何かを取り出した。
もしかして、もしかしなくても。
ごくり、自分が生唾を飲み込む音を、アダムははっきりと意識した。
豪奢な生地で作られた、見間違うはずも無い腕章。
制服を着ない、軍服を着ない軍人がいる。噂のように語られることだった。政府も軍部もその存在は公にしているが、はたしてどこの、だれなのか判然としない存在。
”特別任官”者。政府がその存在を発表した際に掲げられた奇妙な紋章が、今目の前の腕章に光り輝いていた。
「しかし、どうして、」
こんなこどもが、という言葉は飲み込む。相手は佐官相当だ。自分みたいなヘボ従軍カメラマンの首一つ、軽々と飛ばせる。それを思うと不用意な発言は出来なかった。
「それにはお答えできません。それより、あなたは何をしているの?」
そう云ってカメラを指差される。ああ、つまり銃後で云うところの職務質問をされているのか自分は、ようやくなぜこどもが接触を図ってきたか、アダムは理解した。
「自分は、アダム・メオ。従軍カメラマンです。IDも提示しましょうか?」
「いえ、結構です。カメラマンはもう一人いましたが?」
あ、怪しまれてる。アダムは背筋が少しひんやりとするのを感じた。
「あれは新聞カメラマンです。俺は、映画用に」
「映画?」
「はい。今銃後ではニュース映画の放映が義務付けられています。それに使う素材を録画しています」
ニュース映画、こどもは呟いた。きっとこのこどもは知らないのだ。銃後の現状を。あの、神が怒ったソドムとゴモラ並の様子を。思うと少し胸が痛くなった。このこどもは戦場しか知らないのだろう。故郷の血に飢えた様子を知らない。それが良い事なのか、悪いことなのか。アダムには分からなかった。
国に残っている人々は、戦地にいる兵士より、血に熱狂している。戦地から帰還するたび目にするその様子に、アダムは何とも云えない気分になる。自分たちが血を流す可能性がないからこそ、この残酷な現状を嬉々として楽しめるのだろうか?
それとも戦時の異常な雰囲気が、理性という人間の箍を外してしまったのか?
いずれにせよ、ニュース映画を見る人々の、残忍な描写を求める様子はほとんど狂気に近かった。
今一番ヒットしているニュース映画は、生きたままこどもが焼かれる映像がモザイク処理なしで見られることをウリにしているらしい。世も末だと思う。
しかし、そんな残酷な映像を撮り、それで飯を食っているのはほかならぬ自分だ。そんな自分の思考の矛盾にほとほと嫌気が差してきた。
「しかし、なぜこんなところで?何もないでしょう?」
こどもの声で、思考は途切れた。ハハ、誤魔化すように笑うが、こどもの目は恐ろしく真摯にこちらを見つめる。仕方なく白状した。
「無残な死体の映像っていうのは、買値が高くつくんです。今、国内の人間は血に飢えている」
そう、だれもかれも、血に飢えている。戦争の疑似体験を望んでいる。しかしそれは、あくまで”勝者”としてだ。
「なるほど。それなら、」
こどもはすっと指差した。闇夜にむやみやたら歩き回るのは無用心だと思ったが、もうここら一帯には”敵”はいない。みんな無言の人になってしまった。
「あちら、東のほうにふさわしい場所があります。赤い大地よ」
こどもが微笑んだ。赤い大地。そう、アダムというありふれた名前のもとの意味は、”赤い大地”である。しかし今時それを知る人間は少ない。アダムはこどもの教養に驚いた。
「ありがとうございます。あの、よろしければ、あなたのお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
アダムは略式の敬礼をして、こどもに問いかけた。
「ピコ・ウル・ラヴィエンヌ。階級は少佐です。あなたの無事をお祈りしています」
驚くほど儀礼的に云われて、アダムは戸惑ったが、そのまま辞去し東を目指した。
「それにしても、東になにがあるってんだ」
重いカメラを担いでの移動は予想以上に疲れる。ようやっと、ひとつ小高い丘のようなものを越して、アダムは絶句した。松明の炎が少し残っており、ちらちらと光が揺れている。その程度の明かりで十分だった。きっと日中見たら自分は嘔吐する。アダムは確信した。
一面、死体、死体、死体。どの死体も、穴という穴から血を噴き出している。あたり一面血の海だ。
「赤い大地、」
アダムはそのとき、ようやくこどもの言葉の意味を理解した。
作品名:乾いた血は鉄の匂いがするか? 作家名:おねずみ