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せんせい

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先生、その言葉を、いつからか恐れるようになった。 あの薄桃色の唇が、ゆっくりそれを紡ぎ放つと、 たちまち背徳の闇に覆われ、光を失う。
 怖かった、ただ怖かったのだ。これは非道徳なことだ、 なんて口からでは幾百も、幾千も言うことが出来る。 ましてや、自分は聖職に値するのではないのだろうか。 しかし、私が幾度なく否定しようと、その薄い肩を押そうと 少年は唇先をひんやりとつり上げて笑った。
「嘘つき」
「何が、」
 私の問に少年は答えなかった。あきれ果ててものも言えなかったのだろうか。 それとも答えられなかったのだろうか。どちらにも思えた。 無論、それは私の憶測でしか過ぎず、またその答えを私は知ることはない。
 少年はまた皮肉げに笑って私の頬をひんやりとした手で包み込む。 女性のような柔らかさはない頬だ。しかし少年は頬を慈しむように撫でる。 そして、唇を落とした。


 彼が私に思いを告げた時、心のどこかで私は彼を卑下していた。 己より歳上の男に心を奪われるなど馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「おれ、せんせいのことが好きです」
 まだ成長期の薄い肩を震わせ、肩と同様に震えた声で思いを綴る。 その姿は愛らしい。 だが、所詮私にとって一子供で あり(それも同性の、)彼などに心が揺るぐはずはない。 ましてや、少年が抱く感情は、恋などではないのだ。 思春期故に、憧憬を一種の恋だと勘違いだろう。
「初めは先生の声が好きだったんです。 そんなに高くもないのに、低くもなくて、滑舌も良くて聞き取れやすい声。 別に俺声フェチでもないんです。 でも先生の声が凄く好きなんです。 厳しい口調でもどこかその声は優しくて、透明で、 俺そんな先生の声が好きだったから、社会も好きになったんだと思います。 そしたら、先生の授業が楽しみになりました。 廊下で先生とすれ違うのも期待してみたり―――俺去年一年委員に入らず 社会係を頼みに頼み通してなったのは先生に会いたかったからなんですよ? ―――そして先生を見る度に心臓が爆発しそうなくらいに高鳴りました。 誰にも聞こえてなかったのが不思議ですよ。 ああ、なんかよくわかんなくなってきた。 とにかく、俺は先生のことばかり想っているんです。 もう先生を好きでいるのがつかれるくらい。 休もうとして眠っても夢で先生がでるし、かといって起きてたら先生のことを 想わずにはいられない、可哀想でしょ 自分でも馬鹿だなんてことぐらい分かってますよ。でも俺本気です。 先生のこと本気で好きです」
 淀みなくすらすらと少年の口から出てくる科白に私は一瞬眩暈がした。 決して、そう、けして彼に心が揺らいだわけではない。 ただ私は少年に対して恐れを抱いていたのだ。 自分より一回りは小柄であろう、この少年に。 しかしその反面で、私は優越を感じていた。 例えそれが敬愛や憧れだとしても、今、彼の一番は違いもなく自分なのだ。
「私が欲しいのか」
「……、」
 少年は頬を真っ赤に染めて俯く。そして、消えそうな声で肯定を示した。
「俺は――――先生の、すべてがほしいです」


 頬に落とされた唇を、私は身動きもせずに受け容れる。 それを肯定だと思ったのか、少年は汗ばんだ掌を拭い、もう一度私の頬を包み込んだ。 大きな手だ。頬を真っ赤に染め、震える声で私に思いを告げた当時からは 考えられないほどの大きな手だ。
 思い上がった彼が、次は私の唇に自らのそれを寄せようとするのを感じ、 今度は身を捩る。少年は眉を顰めさせた。
「なんで」
「嫌だからに決ま、」
 少年は私の言葉を遮り唇を合わせた。 開いた歯列から強引に舌を入れて彼は貪る。いっそ、この舌を噛み切ってやろうか。 しかしそんなことをしても、この少年は、いや青年は動じないように思えた。 そしてその噛み切った、神経が通らない舌の片割れが私の口内で 蠢いても不思議ではない。なんせ、青年はそれに似た恐ろしさを持っている。 私は背筋をぶるりと震わせた。 そして漸く、あの時の彼に対して感じた恐れを理解した。
 敬愛や、憧憬。青年は初めから私にそんなものを抱いていなかったのだ。 ましてや、恋情でもない。彼が私に抱いていた物? それは初めからなんら変化していない、――。
作品名:せんせい 作家名:あおい