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ある小説家とその家政夫

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朝風呂こそ、小宮山青嵐にとっての至福の時間である。
少し早めに起きてこそできる贅沢。夜寝ている間にかいた汗を流して、べたつく髪を洗い、浴槽の中で歯磨きをする。自分をピカピカに磨いてからでないと、一日働く気が起きないのだ。
今日もまたそんな贅沢を存分に味わってから、鼻歌を歌いつつ朝の準備を進める。
まず洗濯物。風呂に入る前に回していた洗濯機はちょうど止まっており、男二人分の洗濯物を十分ほどかけて二階のベランダに干した。
夏の始まりらしく、風が心地好い晴天だった。空の洗濯カゴを抱えたまま、深く呼吸する。微かに緑の匂いがした。近くにある公園の小さな人工の林の匂いだろうか。バイトの昼休みに、そこでお昼を摂ろうと考えた。
階段を降りる途中、冷蔵庫の中身を思い出し、朝ご飯の献立をすぐに弾き出した。
腰に巻くタイプのエプロンを巻いて調理をしていると、背後からガサゴソと物音がして、青嵐は飛び上がる。
このどう見てもファミリー向け物件である広い家に住んでいるのは青嵐と、この家の主だけだ。
彼は夜に活動することが多いので、朝起きていることがとても珍しい。
だから、通常であればないはずの人の気配は、十分に青嵐を驚かす。
しかし今日は珍しくも、主が朝から行動を開始したらしい。
数年前『虚栄の城』で華々しくデビューを飾ってから、恋愛小説やミステリ、ファンタジーや人間ドラマなど、幅広いジャンルの小説を書き上げる実力派の小説家巽晴永。
彼こそがその主であり、今まさにキッチンに顔を出した人物である。
不健康な生活を送っているためにやや青白いが、しっかりした骨格とそれなりの年数を重ねた味のある顔つきは、男臭さを醸し出す。
無精髭を生やした姿はまさにオヤジとしか言いようがないが、妙に整った鼻筋と目元、厚い唇が目立っていた。
「うわ、びっくりした!…びっくりさせんなよ!」
菜箸を取り落とす勢いで肩を揺らしてしまったことに恥ずかしさを覚えながらも、それを紛らわすかのように怒った口調で訴える。
「コーヒー…」
巽は見た目を裏切って子供っぽく目を擦りながら近付いてくる。
「…はいはい」
溜息一つでそれを了承する。巽が朝に弱いことなどこの一年で嫌というほど思い知らされたし、それにこれは青嵐の『仕事』でもある。
一応、青嵐はこの家に家政夫として雇われている。と言っても、給料は出ない。代わりにこの家の一部屋を借りている。電気代も水道代もガス代も出さなくていいのに、仕事は朝夜の家事だけなので、とても良い仕事である。
青嵐は大学時代一人暮らしをしていたが、仕事の量はその時と大して変わらない気がする。元々家事が苦でない性分のせいかもしれない。
フィルターを設置したコーヒーメーカーにコーヒー粉と水を入れ、スタートボタンを押す。最近の家電はボタン一つで何でもやってくれて楽だ。
サーバーに黒い液体が一人分溜まる前に、火にかけていた中身を皿に盛りつける。電子レンジの中の入れていた物もちょうど加熱終了を告げた。
ダイニングに一人分の朝食を用意し終えてから、サーバーからカップに移したドリップしたてのコーヒーにミルクと砂糖を少量入れて、ボーッと立っている巽の手の中に押し付ける。
「はい、どうぞ」
そんな巽をキッチンに置いてきぼりにして、自分はさっさと食事にありつこうと、リビングのテレビをつけてからダイニングのテーブルについた。
「いただきまーす」
独り言を言って、パンにかぶりつきながら流れている朝のニュースを見るともなしに眺めた。その右上に表示されている時間を見れば、アルバイトのシフトが入っている時間まで、まだまだ余裕があった。
青嵐は、ここに住み込みしながらコンビニでアルバイトもしている。何かあった時のために貯金しているのだ。人様から見ればきっとフリーター。でも青嵐はこの生活をなかなか気に入っていた。
さっさと食べ終わってバスルームで再び歯を磨いてから、食器を洗うためにキッチンに戻ると、巽が飲み終わったコーヒーカップを自分で洗っているところだった。
やっと本当に覚醒したに違いない。
「おはよう」
「あ、青嵐、おはよう」
今更ながら朝の挨拶を交わす。
「今日の分の原稿終わったから、食器洗っとくよ」
「え、早くないか?」
「昨日突然次の話が思い浮かんでさ、早く書きたかったからもう今回のはちゃちゃっと終わらせた」
巽は三十代のおっさんらしくなく、目を輝かせて言った。
「でも、早く書きたいんだろう?まだバイトまで時間あるし、いいよ」
「いいからいいから」
上機嫌の巽は青嵐の手から食器を奪い取ると、シンクに食器を置いて、青嵐の背をリビングに押しやった。そして自らもついて来る。
(今洗えよ…)
家事を溜める癖のある巽に辟易しつつも、夜帰ってきてもまだあるようだったら自分が洗えば良いと、素直に従った。
「それより次の話なんだけど」
「次は週間白秋の短編ミステリーだっけ?」
「そうそう。例のシリーズの。で、その話の被害者が実は…」
『被害者の少女は十六歳で、腹部を鋭利な刃物で複数ヶ所刺されており…警察の調べでは同級生少女の犯行であると…逮捕しました…』
それまで子供が将来の夢を語るように明るかった巽の表情が、つけっぱなしのテレビから流れてくるニュースを耳にした途端曇ってしまう。
彼の意識が、フィクションから現実に戻る瞬間。
青嵐はそんな巽を見たくなくて、慌てて彼の頭に手を伸ばす。少々の…とは決して言えない身長差にムカつきながらも、自分の腕には余る男の体を抱く。
「お人好し」
「なんとでも言ってくれ」
巽の声は震えている。
今の世界を生きるには、少しばかり優しすぎる彼がここに生きていられるのは、きっと彼の意識が半分虚偽(フィクション)の世界に生きているからだろう。
青嵐にとってニュースの中の殺人事件は毎日のように起きて、自分の周りを過ぎ去っていく他人事でしかない。悲惨な事件に眉をひそめることがあっても、深く 悲しんだり泣いたりなんかしない。いちいちそんなことをするのは疲れるからだ。それに、毎日毎日、本当に毎日起きる事件は、大抵の人間の心を麻痺させ、頑 なにさせるだろう。
しかし巽は目にする事件すべての犠牲者を悼む。
それはとても独善的な行為だ。巽もすべての事件を把握するわけではない。見る人によっては偽善とすら映るかもしれない。
だが青嵐はそんな巽を愛しいと思った。多少の汚れがなければ生きていけないこの世の中で、己の真っ直ぐな意思が汚れないようにと、必死で体を丸めて守る巽を。
「原稿、思い付いた通りに進めといてよ。帰ったら読みたい」
「…うん」
背中をぽんぽんと叩き巽から離れる。
巽は相変わらずしゅんとしていたが、少なくとも小説を書きたいという意思は蘇ってきたようだ。
背丈も年齢も青嵐より勝る巽だが、こうして見ると年下のようにも見える。
「しゃきっとしろよ、小説家」
青嵐は抑え切れない愛しさを込めて、笑った。

これはそんな、ある小説家とその家政夫のお話である。