昭和恋々幻影燈
例へば、幼い頃に手を引ゐて呉れた事。紗江子は其れが当たり前であると思つてゐたし、其の手をいぢわるく離した事もあつた。子供特有の、気まぐれな残酷な行為である。
彼女は夕焼けのなか一人歩きながら、其の自分の無邪気な残酷さを不意に思い出すと共に、淋しい彼の手を思つた。彼は、どんなにか心を痛めただろう。
自分に与えられていた、尽きる事の無い愛情を、無限のものと思つていた事を恥じた。そうして、一刻も早く彼の元に向かい、其の愛情への感謝と、謝罪を述べたいと思つた。
街灯がぽつぽつと灯ってゐる。夕暮れの帝都はあやしゐ美しさと、あたたかな家庭のにおいが綯い交ぜになつて独特の雰囲気がある。紗江子は此処が好きだつた。此の余所余所しく、しかし母のようにやさしい街を愛してゐた。
前から歩いて来る男に気付ゐた。肩の部分が特徴的なトレンチ・コォトを着てゐる。彼の人が英吉利に留学したときに誂えたものだ。
嗚呼、彼の人だ。
日が沈んだ。
彼の人も紗江子に気付ゐたようで、少し微笑んだ。
橋の向うには夜が訪れてゐた。群青色の空を見上げる。其の隣にそつと立つ彼の人は、やつぱり控えめな、然しながら美しい愛情を持つ人であつた。
「月が綺麗ですね」
未だ月は昇りきつてはいない。然し其の言葉の意味するところに気付いたらしく、彼の人はええと答えた。