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おとぎ話のような優しい世界は無かったのだ

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もう全てを放りなげてしまってもいいんじゃないかと思った。頑張る必要も、努力する意味も、矢野には無いのだと思った。それらをたしかに持ち合わせていたはずなのに、ポケットにいっぱいになるくらいに詰め合わせていたはずなのに、矢野が掬いだす前に、坂道をころころと転がり落ちるように遠くへ行ってしまった。追いかけようとは思わない。追うべき根拠が矢野には無かったので。駆け出す理由は、ポケットの中で握りつぶした。
 あとは何処にも行けずに立ち往生している。

 鳥が鳴いている。朝の気配。開け放たれた窓から朝の空気が入り込んで、なんだか寒いなあと思ったら、毛布が足元でくしゃくしゃになっていた。もう一度深い眠りについてしまおうと毛布を引き寄せると同時に、頭上で目ざましのアラームがけたたましく叫び始めた。すぐに止める。めんどうだから、起きよう。
 5分くらい呆然と天井を眺める。なにかに絶望したような気分に苛まれながら、寝床から離れることには勇気と気力が必要だった。それでも暫くすると、鳥の啼く数が多くなり、朝はざんこくにも訪れ、したかなく起床するのだ。制服に腕を通す。
 もうそろそろ冬服に切り替えなければ寒いなあと思いながらも、カーディガンを羽織ってやり過ごすことにした。長袖のカッターはどこにしまったっけ。ひとりで暮らしていると、あらゆる物事をぞんざいに済ましてしまう。生命活動に必要な日常の家事以外に矢野は無頓着だ。

 顔を洗って、歯を磨いて、テレビをつける。台所に立つと、昨日のうちに下ごしらえを終わらせていた食材を焼いて、煮て、弁当箱に詰めた。
 そういえばあいつに弁当を作ってやる約束をしていた気がする。いつもコンビニのおにぎりをふたつ食べるだけで、昼を済ました気になってしまう面倒な幼馴染のために二人分の弁当を用意するにはあまり時間がない。朝のニュースでは今日の運勢を読み上げるアナウンサーの声が響いていた。
 しかたがないからコレを食べさせてやればいいか、と矢野は一つだけ弁当を持って、筆記用具やCDプレーヤーが入っただけの軽い鞄を肩にかけた。

鍵を閉めて、外に出る。件の面倒な幼馴染が登校する時間に合わせて家を出ると、外はまだ太陽が昇りきっていない、肌寒い世界であることを、矢野はつい最近知った。
 なんであいつはこんなに早くに家を出て、人気のない教室に一番乗りで到着して、静かな世界で、なにを考えているのだろう。低血圧やここ最近の睡眠不足も相まって、あまり気分のいい話を考えられずにいる。

 世界に馴染めずにいる孤独な幼馴染のせかいは静かで、粛清としていて、だれのせかいともつながって居ない。それでも構わないのだと言ってしまえる彼のそれは、強さでもあり、弱さなのだろう。
 矢野のように、人望があって周囲に笑顔の絶えない学園生活は、楽しいが、時々、ひどく息苦しくなるのも事実だった。その点あいつはいつも孤独で寂しそうで、けれど自由だ。
 羨望も無いし、同情もしないが、矢野はその背中をいつも追いかけているような気がしていた。
 矢野が息がつまりそうだと、すべてを壊してしまいたいとさえ願う衝動を胸の内に秘めていることを知っているのは、彼だけだった。彼はそれを知って、「そうやって生きていける矢野を羨ましいよ」と笑うのだ。嘲りのない静かな笑みで。
 消えてしまいそうなほどはかなく、美しいそれを、矢野はひどく悔しく思った。


 二人は学校では決して言葉を交わすことがないのに、朝だけは、学校につくまでのほんの少しの間を、歩調を合わせて、となりあわせになって、歩くのだ。矢野の周りにはただひとり彼しかいなくて、彼の周りにはただ一人、彼がいる。

「おはよう、矢野」

それ以外には何も喋らないが、彼は矢野を待ってくれているようになった。ふたりで登校することを許すようになり、それは幼いころの二人によく似ていた。郷愁のように胸をつく思いに締め付けられて、矢野は笑えなくなる。
 あの頃は互いを名前で呼んでいた。
 あの頃彼は屈託のない笑みを浮かべて、幸せそうだった。
 あの頃の俺は、こんなにも世界に愛されていなかった。
 彼がその頃の「うつくしいおもいで」を望んでいるわけではないと知っていて、それを強要しているのは矢野だった。
 それを彼はひとり、胸の内に呑みこむようにして、矢野は懐中にしまいこむようにして、ふたり推し量るように距離を確かめ歩調を合わせ、ただ少しの時間を共に過ごすのだ。
それがふたりの日常だった。そうだ。せかいってそんなもんだろう。そうやって ものわかりのいい子どものふりをして、小さな痛みをふりほどくことが、矢野は得意になってゆく。


昇りきった日が二人を照らす。優しくて温かいそれに包まれるよりも前に、ふたりは学校にたどり着く。やがて彼はひとりになり、矢野は息苦しい世界に足を踏み込む。




(おとぎ話のような優しい世界は無かったのだ)