小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

シテン

INDEX|1ページ/20ページ|

次のページ
 

** 始点 **



 小学校の図画工作の時間。教室の窓から見える風景を十二色の水彩絵の具で描かされた。その日の空の色は全く覚えていない。たぶん曇っていても、雨が降っていても、雲一つない快晴でも同じだった。空は青く、雲は白いと決めていた私が、水彩絵の具で描いた空。水で溶いた青を塗り、その上に白を載せる。青い絵の具が乾くまで待てずに置いた白い絵の具は、良い加減で滲んで結果オーライになった。
 今日の空は、正しくそんな感じだ。水色の空に、薄く高い雲。陽光を遮れるほどの厚みはなく、それでもそこに確かに存在する白いベールのように、所々は編みこまれたレースのように、その雲は空に幕をかけていた。上空の風も穏やかなようで、そのレースはゆったりと、少しずつ姿かたちを変えながら流れている。

 岩世中央病院。その名には反して、街の片隅に位置している総合病院。広大な土地を所有し、見事に整えられた敷地内には十分な駐車場や憩いの場、蓮の浮かぶ池や季節の花が咲く花壇。そして、三方を病院の建築物で囲われた、手入れの行き届いた中庭がある。
 その人は、その中庭の膝丈ほどの高さの石の上に立って、両手を拡げ大きく伸びをするように空を仰ぎ見ていた。とても気持ちがよさそうで、そこに割り込んでいいものかと気が引けたが、私の口は意に反して動いた。
「空、飛べるんですか?」
 なんとも間抜けな質問だと思った。が、訊かずにはいられなかった。
 閉じられていた瞼が開いて、ゆっくりと顔がこちらに向けられた。その人と目が合った、と思った。逆光になっていてその人の顔に影が落ちる。背後から降ってきた日差しに視界を遮られた。それでも、その人の口の両端が軽く持ち上がり、影の掛かった目が細くなるのが分かった。
 それに釣られるように、私も微笑んだ。
「だったらいいんだけど。俺は、飛べないな」
と、その人は笑った。
「残念ながら、私も飛べません」と、私。
 あんな問いかけにも、真面目に答えてくれたことが嬉しかった。正直、鼻で笑ってあしらわれると思っていたから。
 その人は、拡げていた両手を身体の横にたたみ軽く膝を屈伸させると、綺麗な弧を描いて地面に着地した。幾分長めで均一に刈り込まれた芝生は、その人からの衝撃を全て吸収した。私はその人が、言葉とは裏腹に空に飛び立っていくような気がして、思わず息を呑みこんだ。
「じゃあ、一緒だ」
と、その人は柔らかい笑顔を崩さずに、穏やかな声で言った。そして、再び空に視線を泳がせた。
「あそこに、月が見えるんだよね。夜の月も存在感があっていいんだけど、昼間の月も好きなんだ。今日はうす雲がかかってて、ちょっと見え辛いけどね」
 その人の指す方向に顔を向けると、白と透明の間のような色をした半月が、薄く広がる雲の間に見えた。昼間の月は弱々しく、そこにある事に気付く人も多くないのかもしれない。だから、余計に暖かい気持ちになったんだろうか。友達と秘密基地を作って、そこに自分たちだけの宝物を隠す。月日を経ても誰にも知られずにそこにあり続け、いつしか大切な思い出となるような。仲間だけ、それを知っている人だけにもたらされる満足感や喜び、そして連帯感。どこか秘密めいていて、そして子供っぽい。一緒に月を見ているその人との距離が、急速に縮まったと思った。

「羽田せんせぇー」
 三階の窓から降ってきた、女の人の声。
 中庭に立っている私たちの方に話しかけている。
「また、そこにいたんですね。カンファレンス始めますよ。上がって来てくださーい」
 その人は右手をひらりと挙げて、
「はーい。今、行きまーす」
 抑揚のない声で、簡潔にそれだけ言って応えた。
 その仕草がどうしてもさっきまで微笑んでいた人と同一人物ではない気がして、その人が一気に年を取ってしまったのではないかと思った。月を見上げた時の距離感はなくなって、突然の地割れが私とその人の間に出現し、それがどんどん深くなっていく。会ったばかりのその人に、なぜか取り残されるのではないかという危機感さえ抱いてしまった。
「すいません。お邪魔しました」
 頭を下げて去ろうとした。ここにいてはいけない気がした。
「空、飛びたいかい?」
 その人は、さっきの笑顔が戻った声で訊いてきた。
「うーん。どうかな。今日みたいな日ならいいんですけどね。雨とか雪とか、そんな日は大変そう」
 夢のない私の返事に「確かに」と呟いて、二、三度首を縦に振った。
「行かないと。さすがに怒られるな。じゃあ、またね」
 私に背中を向けて、建物の中に吸い込まれていったその人こと「羽田先生」は、右足の踵を少し摺(す)って歩く癖があった。足、痛いのかな? と考えたが、余計な詮索はすぐに止めることにした。
 先生って事は、この病院の医者だよな。と、解りきった回答を頭の中で完結して、三階って何科の病棟なんだろう? あの看護師さんは、またそこにいたって言ってたから、先生はこの中庭が好きなんだろうな。仕事に戻るときのあの顔――辛そうだったな。と、またしても要らぬ詮索をしていた事に気付き、頭を振ってその雑考にブレーキをかけた。

 小さいころから身体だけは丈夫だった。病院に来るのは、誰かの見舞いぐらいなもので、実をいうと白衣の医者や看護師には、少なからず恐怖心を持っている。診察室に入ると、仮面を被った異星人に身体を診られているようで、尻のあたりがムズムズし始める。消毒液の臭いとビニールの張られた簡易ベッド、忙しく動き回る看護師の足音。それだけで、心拍数がぐんっと上がってしまう気分になる。治療のためとはいえ、針が自分の皮膚を貫通するなんて……考えただけで鳥肌が立つ。そう、注射が何よりも怖いのだ。だから、風邪さえもひきたくはない。
 そういえば、羽田先生は白衣を着てなかったな。休憩中は脱ぐもんなんだろうか……。そんな事は私の知る由もない事なのだが、さっき月を見上げた時の空気がとても心地よくて、羽田先生の事をちょっと知りたくなってしまった。高校生の遊びに付き合っていられるほど、お医者さんは暇ではないと叱られそうだが……。

 私はこの病院から程近い、通称‘岩高’こと県立岩世高校に通っている。レベルは中の上といったところか。なにぶん家から近いという理由でこの学校を選んだ私は、あまり学業に重きを置いていない。かといって、スポーツに情熱を傾けて青春を謳歌している、わけでもない。なんとなく勉強はできて、それなりに運動もこなす。文武両道と言えば聞こえはいいが、早い話がどちらも中途半端なのだ。炎天下の中で汗水たらしてボールを追いかける高校球児や、目標の大学入学のために時間を惜しんで机に向かっている同級生を、時に羨ましく思う。
 何かの本にこう書いてあった。死ねないから生きていて、死ななければならなくなったら死ぬ。平々凡々と生きて、それが生きているとは分からない傍観者。天国も地獄もその傍観者たちの受け入れに難色を示し、どちらにも属せない無益者たちの通路があるらしい、と。神も仏も死後の世界も信じた事はないが、本当にそんな場所があるなら、私は疑いもなくそこに押し込まれるだろう。そして、私自身もそこにいる事に疑念を持たないに違いない。
作品名:シテン 作家名:珈琲喫茶