視野の重なり
視野の重なり
何だってんだ、この空は!俺の頭で行きつ戻りつ。降るにしろ降らないにしろはっきりしろ。道端に轢かれて伸し烏賊のようになった鼠の死体、奴だってこんな薄汚い天井の下じゃ安心して成仏も出来ない。ひび割れだらけのアスファルト。こいつにしてもどうにも空模様を計りかねた様子で、黒いんだか白いんだかわからない色のまま、とりあえず真っ直ぐに視線の消えるままに延びている。ベルトコンベアのでかいのといった車道に飛び出してみれば、トレーラーが巨大なクラクションを鳴らして通り抜けていく。その後ろから走ってくる危険物を積んだトラック運転手の迷惑そうなその瞳!馬鹿にするなと、こちらも睨み返す。頭にきたのか急にアクセルを踏み込んでまるでイタチの最後っ屁、排気ガスを顔面にひっかけられた。それでも咽ることのできない俺の肺の無神経さ加減!うんざりしている俺の横にあるのは、溝とも川ともただの窪みともつかないような水溜り。鈍い銀色の光を放つポンプが、ごぼりごぼりと溜まった溝に廃油のような水を流し込んでいる。どうせならこの下にある泥の中にでも眠っているのがお似合いなのかもしれない。こいつだけが俺を地面に張り付かせているのかと思うと、カッとなってポンプの隣でうなりをあげている野外用発電機を思い切り蹴飛ばしていた。
そいつから眼を離して左右を見回してみたのは、ここまで来た理由があったというだけだ。門柱のつもりだろうか、一組のありふれたコンクリートブロックが突っ立っている。幾重にもつけられた引っかき傷のようなものの上に「海浜十三ー二十三」と機械的な記号を刻んでいる紺色のブリキの板が打ち付けてある。中に入れば巨大に過ぎるクレーン車の群れが誰かの帰りを待っているように砂利の敷き詰められた駐車場の上に佇んでいる。細かい砂利は踏みしめると水を含んで、靴の動きに抵抗するようにじわじわと白い敷石を黒く染め上げる。俺は帰ろうとする足を無理に引きずりながら機材置き場を通り抜けて、ひび割れだらけのコンクリートの上に出た。建設会社のロゴの入った軽自動車が一台停められていた。そこではスカイブルーの上っ張りの女の事務員が何かに躊躇しているように隣で突っ立っている。女は俺を見つけると驚いたように軽いお辞儀をした。眼の大きな女だ。顔を上げた女に俺が感じたのはそれだけのことだった。彼女も別に俺の様子を気にするようでもなく、背伸びを何度かして後ろのプレハブ作りの事務所を覗き込んだ後、ようやく手に握られていたキーを軽自動車のドアの鍵穴へと差し込んだ。俺はままよと埃に白く染め上げられたタイルが気になる玄関口に足を向けた。油が効いていないのか割の重いアルミの扉を開き、当たり前のように置かれた観葉植物の脇をすり抜ける。正面の、テーブルともカウンターとも付かないようなついたての上には、受付と書かれたプラスティックのカードが置かれているだけで人影も無い。ブルゾンのポケットからしわくちゃの履歴書と職安の案内状を取り出してそれを机の上で押し広げてぼんやりと佇む。耳を澄ませば表通りをまた何台か大型車が通り過ぎていく音が聞こえてくる。ついたてで仕切られた角を過ぎた階段の裏側から、トイレか何かに行ってきたのか、薄鼠色の作業着で濡れた両手を拭いながら、男が一人、偶然とでもいうような顔つきで転がり出た。頭の禿かかった、見たところ五十がらみの現場監督だろうか、あくびと共に顔に出た笑みを急に消し去ったかと思うと、受付に立ち尽くす闖入者に驚いた様子で駆け出してきた。
「あっ、ちょっと済みませんね」
とりあえず挨拶でもしようと頭を下げかけた俺を残して、作業服は外に向かって駆け出していった。見れば今にも出掛けようとしていた軽自動車の天井を軽く叩いて、先ほどの事務員となにやら話し込んでいる。迷惑そうな顔が、フロントガラス越しにこちらからも伺える。作業服はありがちな笑みを浮かべて手を合わせる。彼女はいらだたしげに薄いドアを思い切り閉めるとこちらに向かってきた。
「早く!早くしてよ。……ああ、別に上着はそのままえいいから。それよりお茶、お茶入れてくれよ。ああ、すいませんね。なんだか妙な所見せちまって。ちょっと、こっち、来てくださいよ」
手にした上着を机の群れの上に投げつけて奥の給湯室に消えて行く事務員を無視して、作業服は先ほど階段へと向かった。奴のガニ股にくっついて、狭苦しい通路を潜り抜け、安物のタイルの貼られた階段を身をかがめるようにして昇る。体を傾けるだけで軋むような安普請を気にしながら、その名には相応しくないほど狭い踊り場を抜けて、ヘルメットの並んでいる廊下を通り過ぎ木目がわざとらしい扉に突き当たった。
「入るよ」
開いた扉の隙間から聞き慣れたテレビタレントの浮ついた笑い声が聞こえてきた。作業服は一声唸って小走りで奥の方へ急ぐ。俺はその後ろに続いて申し訳なさそうに部屋の中に入った。雑然と長椅子の並べられた部屋の中で、事務屋のような眼鏡の男が、のろのろと食いかけの弁当をロッカーの上に運んでいる。
「いやあ、すいませんね。こういった職場だとどうしても男ばっかで、人目を気にしたりすることもないもんだから……。休憩室なんて名前で呼ばれたりすると、すぐこうなっちゃう訳ですよ。まあ、しばらくそこの椅子にでも座っててください」
さすがにこの男は「面接」には慣れているらしい、別に表情を変わる訳でもなく、どうにか格好だけはつけようと長机を前に焦っている作業服を後目に、椅子を軽くそろえただけで座り込んだ。その口元に「笑い」が浮かぶ。俺もまたそれにあわせて義務的な笑みを頬に作り上げる。
「ゲンさん!お茶はヨウコちゃんに頼んだの?」
作業服の顔に曖昧な困惑の表情が浮かぶ。作業服の持つ机の脚が、ひ弱に見える壁にぶつかって悲鳴を上げた。その様子を見ても眼鏡は眉を顰めるが決して立ち上がって助けようとはしない。
「あの……、お茶なんですけど……、何処に置きましょうか?」
開けっ放しのドアから音もたてずにのっそりと「ヨウコちゃん」が現れた。凍り付いたように椅子を両手に抱えながら動きを止めた作業服の眉間に、同情とも諦めともつかない悲しげな皺が刻まれては消える。
「あんなあ、今、こうやって用意しているんだってのに……、とりあえずこの棚にでも置いてだ……、あっ、なんだ。二つしか入れてこなかったんかよ?」
「だって……。いいえ、すいません。気が付かなかったもので」
「気が付かなかったって、新人じゃあるまいし、俺のはどうでも良いけど部長のくらい入れてこなきゃダメだろ?」
「申し訳ありません!」
「ヨウコちゃん」の大きすぎる瞳が凍り付いた。働くのを止めた作業服の姿を頬杖で見守っている眼鏡の痘痕だらけの顔がその中に映っているだろう。眼鏡は気にする風でもなくつけっぱなしのテレビの画面を表情も変えずに見つめている。俺は目の前に置かれた緑茶を飲んだ。熱湯で入れたうえに葉を入れすぎたのか、苦味とエグミが舌の両脇に纏わり付く。
「……ヨシオカ……ヨシオカさんでしたよね……?」
何だってんだ、この空は!俺の頭で行きつ戻りつ。降るにしろ降らないにしろはっきりしろ。道端に轢かれて伸し烏賊のようになった鼠の死体、奴だってこんな薄汚い天井の下じゃ安心して成仏も出来ない。ひび割れだらけのアスファルト。こいつにしてもどうにも空模様を計りかねた様子で、黒いんだか白いんだかわからない色のまま、とりあえず真っ直ぐに視線の消えるままに延びている。ベルトコンベアのでかいのといった車道に飛び出してみれば、トレーラーが巨大なクラクションを鳴らして通り抜けていく。その後ろから走ってくる危険物を積んだトラック運転手の迷惑そうなその瞳!馬鹿にするなと、こちらも睨み返す。頭にきたのか急にアクセルを踏み込んでまるでイタチの最後っ屁、排気ガスを顔面にひっかけられた。それでも咽ることのできない俺の肺の無神経さ加減!うんざりしている俺の横にあるのは、溝とも川ともただの窪みともつかないような水溜り。鈍い銀色の光を放つポンプが、ごぼりごぼりと溜まった溝に廃油のような水を流し込んでいる。どうせならこの下にある泥の中にでも眠っているのがお似合いなのかもしれない。こいつだけが俺を地面に張り付かせているのかと思うと、カッとなってポンプの隣でうなりをあげている野外用発電機を思い切り蹴飛ばしていた。
そいつから眼を離して左右を見回してみたのは、ここまで来た理由があったというだけだ。門柱のつもりだろうか、一組のありふれたコンクリートブロックが突っ立っている。幾重にもつけられた引っかき傷のようなものの上に「海浜十三ー二十三」と機械的な記号を刻んでいる紺色のブリキの板が打ち付けてある。中に入れば巨大に過ぎるクレーン車の群れが誰かの帰りを待っているように砂利の敷き詰められた駐車場の上に佇んでいる。細かい砂利は踏みしめると水を含んで、靴の動きに抵抗するようにじわじわと白い敷石を黒く染め上げる。俺は帰ろうとする足を無理に引きずりながら機材置き場を通り抜けて、ひび割れだらけのコンクリートの上に出た。建設会社のロゴの入った軽自動車が一台停められていた。そこではスカイブルーの上っ張りの女の事務員が何かに躊躇しているように隣で突っ立っている。女は俺を見つけると驚いたように軽いお辞儀をした。眼の大きな女だ。顔を上げた女に俺が感じたのはそれだけのことだった。彼女も別に俺の様子を気にするようでもなく、背伸びを何度かして後ろのプレハブ作りの事務所を覗き込んだ後、ようやく手に握られていたキーを軽自動車のドアの鍵穴へと差し込んだ。俺はままよと埃に白く染め上げられたタイルが気になる玄関口に足を向けた。油が効いていないのか割の重いアルミの扉を開き、当たり前のように置かれた観葉植物の脇をすり抜ける。正面の、テーブルともカウンターとも付かないようなついたての上には、受付と書かれたプラスティックのカードが置かれているだけで人影も無い。ブルゾンのポケットからしわくちゃの履歴書と職安の案内状を取り出してそれを机の上で押し広げてぼんやりと佇む。耳を澄ませば表通りをまた何台か大型車が通り過ぎていく音が聞こえてくる。ついたてで仕切られた角を過ぎた階段の裏側から、トイレか何かに行ってきたのか、薄鼠色の作業着で濡れた両手を拭いながら、男が一人、偶然とでもいうような顔つきで転がり出た。頭の禿かかった、見たところ五十がらみの現場監督だろうか、あくびと共に顔に出た笑みを急に消し去ったかと思うと、受付に立ち尽くす闖入者に驚いた様子で駆け出してきた。
「あっ、ちょっと済みませんね」
とりあえず挨拶でもしようと頭を下げかけた俺を残して、作業服は外に向かって駆け出していった。見れば今にも出掛けようとしていた軽自動車の天井を軽く叩いて、先ほどの事務員となにやら話し込んでいる。迷惑そうな顔が、フロントガラス越しにこちらからも伺える。作業服はありがちな笑みを浮かべて手を合わせる。彼女はいらだたしげに薄いドアを思い切り閉めるとこちらに向かってきた。
「早く!早くしてよ。……ああ、別に上着はそのままえいいから。それよりお茶、お茶入れてくれよ。ああ、すいませんね。なんだか妙な所見せちまって。ちょっと、こっち、来てくださいよ」
手にした上着を机の群れの上に投げつけて奥の給湯室に消えて行く事務員を無視して、作業服は先ほど階段へと向かった。奴のガニ股にくっついて、狭苦しい通路を潜り抜け、安物のタイルの貼られた階段を身をかがめるようにして昇る。体を傾けるだけで軋むような安普請を気にしながら、その名には相応しくないほど狭い踊り場を抜けて、ヘルメットの並んでいる廊下を通り過ぎ木目がわざとらしい扉に突き当たった。
「入るよ」
開いた扉の隙間から聞き慣れたテレビタレントの浮ついた笑い声が聞こえてきた。作業服は一声唸って小走りで奥の方へ急ぐ。俺はその後ろに続いて申し訳なさそうに部屋の中に入った。雑然と長椅子の並べられた部屋の中で、事務屋のような眼鏡の男が、のろのろと食いかけの弁当をロッカーの上に運んでいる。
「いやあ、すいませんね。こういった職場だとどうしても男ばっかで、人目を気にしたりすることもないもんだから……。休憩室なんて名前で呼ばれたりすると、すぐこうなっちゃう訳ですよ。まあ、しばらくそこの椅子にでも座っててください」
さすがにこの男は「面接」には慣れているらしい、別に表情を変わる訳でもなく、どうにか格好だけはつけようと長机を前に焦っている作業服を後目に、椅子を軽くそろえただけで座り込んだ。その口元に「笑い」が浮かぶ。俺もまたそれにあわせて義務的な笑みを頬に作り上げる。
「ゲンさん!お茶はヨウコちゃんに頼んだの?」
作業服の顔に曖昧な困惑の表情が浮かぶ。作業服の持つ机の脚が、ひ弱に見える壁にぶつかって悲鳴を上げた。その様子を見ても眼鏡は眉を顰めるが決して立ち上がって助けようとはしない。
「あの……、お茶なんですけど……、何処に置きましょうか?」
開けっ放しのドアから音もたてずにのっそりと「ヨウコちゃん」が現れた。凍り付いたように椅子を両手に抱えながら動きを止めた作業服の眉間に、同情とも諦めともつかない悲しげな皺が刻まれては消える。
「あんなあ、今、こうやって用意しているんだってのに……、とりあえずこの棚にでも置いてだ……、あっ、なんだ。二つしか入れてこなかったんかよ?」
「だって……。いいえ、すいません。気が付かなかったもので」
「気が付かなかったって、新人じゃあるまいし、俺のはどうでも良いけど部長のくらい入れてこなきゃダメだろ?」
「申し訳ありません!」
「ヨウコちゃん」の大きすぎる瞳が凍り付いた。働くのを止めた作業服の姿を頬杖で見守っている眼鏡の痘痕だらけの顔がその中に映っているだろう。眼鏡は気にする風でもなくつけっぱなしのテレビの画面を表情も変えずに見つめている。俺は目の前に置かれた緑茶を飲んだ。熱湯で入れたうえに葉を入れすぎたのか、苦味とエグミが舌の両脇に纏わり付く。
「……ヨシオカ……ヨシオカさんでしたよね……?」