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記憶

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その日以来、彼女、藤本さんとここで顔を合わせると軽い挨拶程度の会話をするようになった。
しかし、基本的に2人とも勉強に集中しているし、図書室という場所柄、そんなに頻繁に話をするわけでもなく、藤本さんのことで私が知っていることといえばクラスと名前ぐらいのもので、それ以上の踏み込んだ話をしようとも思わなかった。
座る場所も話すようになったからと言って近くの席に移ることもなく、ここ以外で見かけても、他の友人と一緒にいるときに話しかけることがなんだか憚られて、たまに目が合うと目礼するぐらいという関係だった。

それでも、私は同じ図書室で自習する者として藤本さんに一方的ではあろうが連帯感のようなものを感じていたし、ここでだけ交わされる会話を楽しみにもしていた。
ただ、いつもの席で窓際の藤本さんの存在を感じていられれば妙に落ち着き、たまに向けられる笑顔とその声で受験でピリピリしている心が穏やかになるのだ。


いよいよ受験が差し迫り、3年生は自由登校ということになると、わざわざ学校に出てくる生徒も少なくなってきていた。
中にはすでに志望校に合格し、卒業式まで来ないという人もいるらしい。
それでも私は毎日登校し、出席を取った後友人達を教室に残して、決まって1人で図書室に足を運んだ。
図書室には必ず藤本さんがいて、いつもの席で黙々と勉強している姿が見られた。

今日も図書室にはすでに藤本さんが来ていて、私がドアを開けた音に振り向いた藤本さんに挨拶をするといつもの席に座った。
他の学年は授業中ということもあって、この時間にここにいる生徒はいつも疎らではあったが、今日は私と藤本さん以外には誰もいなかった。
こんなことは初めて話したとき以来だと思いながら勉強に取り掛かった。

それからどれぐらいの時間が経ったのか、集中を遮るかのように冷たい風が吹き込んできてそちらに目をやると、彼女が窓に手をやりこちらを見ていた。

「やっぱり窓開けると寒いね」
「当たり前だよ。今、何月だと思ってんの」

私がそう言うと、藤本さんは自分で開けたくせに寒い寒いと言いながら窓を閉め、その作業を終えると振り返り、こちらを見ている。

「何?どうしたの?」

一連の行動の意味が分からず尋ねると、藤本さんはそれには答えず、いつもの笑顔を湛えたまま淡々と自分の話を始めた。

「私、明日第1志望の受験なんだよね」
「え?そうなの?頑張ってね」

突然切り替わった話に頭が付いていかず、ありきたりな励ましの言葉を返してしまう。

「うん、頑張る。関口さんはいつ?」
「私は来週だね」
「そうか。頑張ってね」
「うん。ありがとう。頑張るよ」

思えば、互いの志望校の話すらしていなかったのだ。
初めて進路について話が及んで、どこを受けるんだろうと考えていたが藤本さんの言葉で、その思考は遮られた。

「私、たぶん今日でここに来るの最後だと思う」


その言葉に思わず息が詰まる。
毎日人の減っていく教室を見て考えなかったわけではない。
それでも、まだ先のことだと思っていた。
思おうとしていた。
しかし、その時はもう目の前まで迫っていた。
その現実を突きつけられ、言葉が見つからない。

そんな私に構わず藤本さんは笑顔で続ける。

「そんなに話したりしたわけじゃないけど、
 関口さんを見てるとこっちも負けてられないって頑張れたよ。ありがとう」

それは私の台詞だ。
私はあなたの真剣に勉強に取り組む姿に叱咤され、あなたの笑顔に励まされ、あなたの声に癒され、何よりあなたの存在があったからこそ私はここに通い続けられた。

だけど、そんなことを本人に面と向かって言えるわけもなく、私はただ、そっかと呟いたきり黙りこくってしまった。
鼻の奥がつんとしてくるのを感じ、それ以上はまるでのどに蓋でもしてしまったかのように声が出せなかった。
そんな私に藤本さんは少し困ったような笑顔を向けている。

その時、終業のチャイムが鳴り、それを聞いた藤本さんは机を片付け始め、私はそれをただただ眺めていた。
片付けを終えると藤本さんはこちらに歩み寄り、相変わらずの笑顔でこう言った。

「私、今日はもう帰るけど、関口さんも入試頑張ってね。
 関口さんと話せるようになれてよかったよ。ありがとう。」

そして、去り際に一言、小声でボソッと呟いたのが耳に入った。

「もしかしたら私、関口さんのこと少し好きだったのかも」

自分の耳を疑った。
もう一度聞き返そうと振り返ってみたが、すでにそこに藤本さんの姿は無かった。
慌てて出入り口に走り辺りを見回すと、廊下に藤本さんの後ろ姿を見つけ、その背中に叫んだ。

「藤本さん!私も藤本さんのおかげで頑張れたよ!
 話せてよかった!ありがとう!明日頑張って!」

さっきまでちっとも出てこなかった声がすんなりと出た。
私の声に彼女は振り返り、軽く手を振ると小走りで行ってしまった。

私は誰もいなくなった図書室に戻ると、いつも藤本さんが座っていた席に座り、自分の少し散らかった席を眺めた。
藤本さんもここでこうしてあの席に座っている私を見ていたことがあったのだろうか。
私がこの席に座る彼女を見ていたように。
目の前の机に視線を移し、そっと触れてみた。

ついさっきまで藤本さんが使っていたはずの机。
何も無い冷たい机は、そこに毎日座っていた生徒のことなどもう忘れてしまったかのようだ。
それなら、せめて私はここに座っていた彼女の姿を忘れないでいよう。
私は目を閉じ、藤本さんの姿を、笑顔を、声を、そして最後に見た横顔に光っていた涙の跡を思い浮かべ、一つ一つ記憶に刻み込んだ。
それらを見ていたときの自分の気持ちとともに。
閉じた瞼のはじから涙はこぼれても、その記憶だけは絶対にこぼれ落ちないように。
作品名:記憶 作家名:新参者