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【創作BL】群青の空に駆ける

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 目の前に、スタートラインが見える。グラウンドの茶色い土に、真っ白な粉で引かれた線だ。さっき引きなおしたばかりのそれはちょうど足元を横断していて、それと垂直に、何本もの白線が等間隔に前方へと伸びている。
 一度深呼吸する。集中、そしてイメージ。
『位置について』
 スターターの声が聞こえて、その場に屈むと、左膝を地面につけて右足の膝を立てる。横切っている線に親指と人差し指を合わせ、両手を地面へと置いた。軽く目を閉じる。
『用意』
 合図と共に腰を上げる。静止、少しの空白。もう瞼は開いていて、地面を、それから遠く彼方にある前方を見つめる。その先に悠然とひらめきながら待ち受けているのは、白いテープだ。もっとも、百メートルも手前のこの位置からではそれがどんな様子かなんて良くは分からない。
 フッと息を吐いた。肩から余計な力を抜いて、神経を研ぎ澄ませる。程よい緊張感。両足はもういつでもスターティングブロックを蹴って前へと飛び出す準備が整っている。スタートをいまかいまかと待ち受けている。その間、一秒やそこらだと思うのに、いつでも長く感じる。
 そして気持ちが最高潮に達したのを見計らったように、パァン、とピストルの音が頭の奥深くに響き渡った。



「――また速くなってんぞ、暁人!」
 ゴール地点。ストップウォッチを手にしたノブが半ば呆然と、半ば興奮した様子で、走り抜けた俺に駆け寄ってきて、声を掛けた。
「タイムは?」
「十一秒〇七! ほらっ」
 左手を膝に、右手を腰に当てて前のめりに佇んだまま、荒い息を吐きながら首だけ捻って尋ねる。ノブは自分が出したかのように得意げにタイムを見せたが、正直、そんなもんか、という感想だった。
「十一秒切れてねぇし、まだまだだろ」
 確かに自己新だけど、たったのコンマ一秒だ。目標レベルまでは程遠い。ノブは恐ろしいものを見たかのようにオーバーにおののいた。
「うげ、さすが国体レベル」
「バーカ。センキュ」
 代わる、とストップウォッチを受け取ろうとするが、ノブは「いいよ」と手を差し出さない。
「何だ、遠慮すんなよ」
「アホ、新記録の後じゃ走りづらいんだよ。スタートの練習すっからタイムはいいや。お前は走りっぱなしだろ、ちょっと休めよ」
「おう」
 それもそうだなと思いなおして、水分を摂ることにする。
 ノブこと長沼信久と俺、真崎暁人は、陸上部の部員だ。二人とも高校一年で、クラスは別々。ノブはB組、俺はA組だ。
 今は放課後で、俺たちはグラウンドの一部、陸上部の短距離用コースにいる。いつもなら二年、三年の先輩も入れて計十数人いる部員が、この頃は訳あって俺とノブの二人しかいない。
 うちの高校のグラウンドは、その周囲を校舎など三つの建物で囲まれている。俺やノブの教室がある教室棟と、図書室や特別教室のある別棟、そして体育館の三つだ。俺のよく使う百メートル用のコースは特別棟に面していて、一階の美術室は距離にして十メートルくらいだろう、植え込みを挟んでコースと平行に位置していた。
 ペットボトルの水を飲みながら、ちら、とそちらに目を向ける。美術室の窓際には、予想した人物が居た。俺に気づくと、太い黒縁の四角いフレームの奥と口元に、はにかんだ笑みを浮かべた。
(うわ……)
 思わず目を逸らす。何か無性に恥ずかしい。気づかなかった振りをしてボトルを傾ける。
 だけど無視ってのもあんまりかな、と五秒くらいしてもう一度視線を投げてみると、彼はもう俺のことなんか見てなくて、窓に垂直の方向へと向き直っていた。
 正しくは、そこに設置された白いキャンバスへと。
 その真摯な顔は、今見せた照れくさい笑顔とはまるで違っていて、今度は俺がじっと眺めてしまう。俺とは対照的な長めの前髪が眼鏡に掛かっていて、邪魔じゃないんだろうかと俺の前髪でもないのに気になった。
 これまた俺とは違う、細っこい右手の先には、油彩用の筆が握られていることだろう。この位置からは、手元は見えないけれど。
「またあいつ、暁人描いてんだ?」
 ノブが寄ってきて言った。俺はぼんやりと見つめたまま、ああ、と適当に相槌を打つ。
「えーと、相澤……何つったっけ」
「藍色の藍に生きるって書いて、藍生(あおい)」
「そうそう、アオイか。何か女みてぇな名前だよなぁ。容姿も野郎にしちゃ可愛らしいけど……っと」
 ノブは背もデカイが声もデカイ。髪は短髪の俺よりも更に短い五分刈りで、いかにも体育会系だ。本人も自覚しているのだろう、慌てて口に手を当てた。幸い、窓の向こうはこちらを振り返らなかった。その顔は変わらず真剣そのものだ。
 どうやら聞かれずに済んだらしい、俺たちはほっとしながら美術室から出来るだけ離れる。ノブがワントーン下げた声で呟いた。
「俺、思うんだけどさ。暁人、相澤に描かれだしてから、すっごい調子上がってないか?」
「え、何で……」
「絶対そうだって。だって、つい一週間前までは超スランプだったじゃん」
「るせー」
 それはその通りだ。そして、相澤が美術室の窓際を定位置としたのも、一週間前。ノブに言われるまでもなく、気がついていたことなんだけれど。
「一週間と言えばちょうどあと一週間か。文化祭と、国体」
「あぁ」
 俺は頷く。
「先輩たち、ほんと文化祭終わるまで出て来ねえつもりかな。ま、どうせ俺ら部でやることねえからいいんだけど」
「……あぁ」
 最後は独り言のような台詞に気のない返事をすると、ノブは向き直って背中をバン、と叩いた。
「気にすんなよ! お前は自力で切符手に入れたんだからさ、何も考えずに青い空の下走ってりゃいいの」
「……、」
 その台詞に、ぶたれたことに文句を言うのも忘れて俺はまじまじとノブを見る。
「何だ、そんな見つめるなよー。照れるだろ」
「あ……悪い」
 言われてはっとした。でもノブには悪いけど、台詞に曖昧な返事をしたのも、励ましについ凝視してしまったのも、ノブの考えているような理由ではない。
 思い出していたからだ。彼――相澤と俺が出会った、つい一週間前のことを。
 


「おれ、真崎を描いてもいい?」
「……は?」
 それが相澤と俺の交わした、ほぼ最初の会話だった。
 ほぼ、というのは言葉の通りだ。一週間前に相澤と俺が出会った、と言ったが、それはちょっと嘘で、俺と相澤はこの春から同じ一年A組、要するに半年もクラスメイトだった。
 けれど名前の順も席も遠ければ、タイプも全然違う。陸上部で走ってばかり、元気だけがウリの俺と、美術部で――と言うのは後で知ったんだけど――大人しい相澤とは話す機会がなくて、気が合うとも思えなかったから、敢えて話そうともしていなかった。
 それが、一週間前のあの日。さっきみたいに何気なく美術室を見たら、外を見ていたらしい相澤と目が合って、向こうはやっぱり控えめに微笑んだ。つられて「おう」とか何とか言いながら手を上げる。地味なイメージだったけど案外笑うと人懐っこい印象だな、なんて思ってたらいきなり立ち上がった。
「――あのさ!」
 美術室は外へ面した引き戸もついていて、相澤はそこから上履きのまま、中庭に出てきた。