クラインのつぼ
テープの表をなぞっていくといつの間にか裏側となり、さらになぞっていくと表になっている。
いわゆる『メビウスの輪』といわれるものである。
では、『クラインのつぼ』というものはご存じだろうか。
ある処置をすれば、チューブの内側を通っているはずなのにいつの間にか外側を通っていて、さらに進むと内側になっているというものである。
「ちょっとぉ、だれか来てぇ」
と呼ぶさとみの声に、なにごとかと夫の孝史は洗面所に顔をのぞかせた。トイレのドアを少し開けて、さとみが手招きしている。
「カミに見放されたら自らの手でウンをつかめ」
「何言ってるの、違うのよ、ちょっとおかしなことが起こってるのよ」
そう言ってトイレのドアを大きく開いた。臭気が漂ってきた。鼻をすぼめ、息をつめながら孝史は尋ねた。
「どうした?」
「ちょっと見てて」
と言って、さとみは丸めたトイレットペーパーを便器に落としてみせた。
「ほら、見た?」
あぁ、と言いながら孝史もトイレットペーパーを引きちぎって丸めて便器に落とした。
ふたりして首をひねり顔を見合わせた。
「どういうこと?」
いつの間にか高校生のさよりと中学生の勇介がのぞきこんでいる。さよりが、
「かあさん、手ぇ突っ込んでみたら」
と言うと、勇介は
「やめろよ、吸い込まれたらどうすんだよ、四次元の世界に行ってしまうかもしれないんだぞ」
反抗ばかりして口もきかなかったのに、それなりに心配をしてくれているのだろうか。
でもやはり気になるので、一番軽いさとみが手を突っ込む役で、あとの3人でさとみをしっかり支えることにした。
「手ェ突っ込むわよ、いち、にぃのぅさん!」
さとみは、ゴム手袋をした手を便器の中に突っ込んだ。孝史は後ろから腰に両腕をまわし、勇介はさとみの左腕を両手でしっかりと握りしめ、さよりは孝史と勇介のズボンのベルトに手を差し入れた。トイレが狭いので、孝史がやっとさとみの後ろに入れるぐらいである。
「あれェ、手の先から消えていく・・・」
少しかがんだ後、立ち姿に戻ってゴム手袋をはずし、便器の中に捨てた。すっと消えていった。
「引き込まれる感じはなかったけど、どこか異次元の世界につながっているのかしら」
「あっ、そういえば昨日、家の前で下水工事してたじゃん、あれと関係してるかも」
「かあさん、後のことは頼んだよ。会社に行かないと」
「ヤベッ、学校に遅れる!」
「急げ!イソゲ―」
さとみはどうしていいか分からないまま、しばらく様子を見ることにした。スーパーでパートをしているので、ゆっくりもしていられないのだ。
今日は、燃えるごみの日だ。ゴミ集積場は、玄関から10メートルほど離れている。
――えエーイ、面倒だ、トイレに捨てちゃえ。
いったいどうしてああいう現象が起こったのだろう、いくら考えても分からない。電車のつり革に体重をかけて、電車の揺れに任せていた。
――そうだ!あのビデオ、トイレに捨ててしまおう。
昨年秋の社内旅行で行ったホテルでの宴会で、裸踊りを披露したのだ。もう少し詳しくいうと、『ほたる』である。それが撮られていたなんて少しも知らなかった。しかも女子社員に抱きつこうとしているところまで・・・幸いセクハラとかで追及されなかったけれど、そのDVDを贈呈された。丁寧にラベルまで付けて。こっそり家で観てみたのだが、安易に処分もできずに隠していたのだ。
トイレ、帰るまで直っていなければいいんだが。
さよりは高校3年生である。テニス部の先輩と2年間付き合ってきたのだが、この夏、大学2年生となった彼に恋人ができたらしい。
「バイトで稼いだ金でなにかアクセサリーをプレゼントしたいから一緒に見に行こう」
なんて誘われて、素敵なペンダントを買ってもらった。その直後である。
「好きな人ができたんだ」
と打ち明けられたのは。
「そのペンダント、僕たちの想い出に、と思って」
ふざけんじゃねぇよ、まったく。想い出なんて残しておきたくもないよ。
――そうだ!あのペンダントと写真、糞まみれにしてやる!
受験、受験、めざせ!進学校。めざせ!公立高校。
まったくうざったいんだよなァ。夏休みも毎日塾通い、毎日テスト。
だんだんやる気も失せてきて、最悪の点数が続いている。息抜き、したいよな。こんなテスト結果見せたらまたヒステるよなあのババアは。あーあ。
――そうだ!こんなもんはトイレに流してしまえ。
空間がよれてできた『クラインのつぼ』にも容量がある。
そしていっぱいになった時、初めの便が便器に現れた。
あれっ?と思いながらさとみはレバーをひねって水を流した。その水は『クラインのつぼ』の中の物を押し出すようにして流れ、便器の中は・・・・・・
マスクをし、ゴム手袋をはめた手で、しかめっ面を顔に張り付けたまま、トイレに流せない物を分別していった。
? DVD 表のラベルを見た。まあ!
さとみと孝史は社内結婚であった。孝史の裸踊りのことについては、当時からの友達から聞き及んで知っていた。
? ペンダントと写真 付き合っていた中西君と別れたんだわ、きっと。それで最近つっけんどんになって、元気もなかったのね。
? 答案用紙 成績のことは先生から聞いて知っていた。よほど気に病んでいたのかしら。
――ウフフフフ、我が家の隠し事ってこの程度なんだ。
いつの間にか顔の表情が緩んでいた。
ピストルや、切断された腕や、頭のない猫の死体や、裏帳簿めいた物が出てくることはサスペンスものではよくあることだが、
あぁ、我が家は平和なんだぁ。
おわり