ぷりん
顔をあげると見慣れた風景があった。
桜、葉、紅葉、枯れ枝、と自然の風景から古びた家が壊されていく様子、そしてその跡地に今では珍しくない高層ビルが立ち並んでいく様子まで多くのものを映している。
日常には多くの変化が存在する、それは外の風景だったり、天気の移り変わりだったり。
もちろん、変化は外だけでなく内にもある、壁の色だったり、ソファーの沈みこみ具合だったり。
爪を切りながら、物思いにふけていた。
ぱちん、ぱちん、がりがり、がりがり、ぱちん、がりがり。
もちろん変化があるのは外界だけではない、自分たち人間にも起こる、爪を切るのに視線をさえぎる前髪、料理するには少々邪魔な長い爪、キリキリと熱を発生している奥歯の痛み、変化が訪れない人間なんて存在しない。
おそらく変化がなければ人間は死んでしまうだろう。
変化があるからこそ人間は行動を起こす、変化がなければ人間は何をするわけでもなく、結果的に何かを麻痺させていくことになるだろう。
人間は行動しなければ筋肉が麻痺し、鎖に雁字搦めにされたように次第に動けなくなる。
なら自分はいったい何に麻痺しているのだろう、もうそれすらわからない。
黙々と爪を切っていると傍から香りがした。
その香りは俺の体温を上昇させ、心がざわつかせる。無性に落ち着かなくなる。
ふと視線を下に向けると、ソファーの上に広げていた新聞紙が微かに動いて、爪が新聞紙から滑り落ちようとしている。
爪を切る手を止め、緩慢な動きでさりげなく中央に寄せた。
再び爪を切るために顔を伏せる。
コトリと何かを置く音がした、甘ったるい匂いは若かったころの甘酸っぱい記憶を蘇らせる、台所に向かう見慣れない姿、しきりに本へ視線をなげる横顔、いつもは堂々としているのに小さく見えた背中、そしてあたりに広がる甘い香り、思わず目頭が熱くなりそうだった。
ようやく切れた爪を見て、背筋を伸ばすとぱきっぱきっと心地よい音がした。
チラリとテーブルへ視線をよこせば自分が考えていたものとまるっきり同じものが置いてあった。
半分ほど食べられたそれは山形のフォルムすら崩れてはいるものの、カスタードのなめらかさやキャラメルの香ばしさは変わらないだろう、口の中にその味が蘇る、昔はただひたすら甘いしか感じなかったそれが、今では甘い味よりもキャラメルの苦い味が口の中に広がった、その際奥歯の痛みまで思い出してしまい、痛みを隠すように再び視線を手元へ向けた。
奥歯の痛みと同時にある部分から軋む音がしたが、気のせいだと無視をした。
「何しているの。」
「べつに・・・爪切っているだけだけど。」
「そのことじゃないよ。」
無意識に身体が震えた。
「爪、ぼろぼろ。」
背中から手が伸び、俺の手を握った。
冷たい、冷たい、体温が奪われていきそうだ。
それでもその手を振り払えないのはなぜだろうか。
俺の手を掴むと、背中から覗き込むように手を見てきた。
「ぼろぼろじゃないし。」
「ぼろぼろだよ、こんなに深爪している。」
そういえば少し皮膚が見えている。
赤い色を見せるそこは空気に触れ若干ひりひりもしている。
あれ、なんか心臓が痛い・・・。
手を握られた瞬間、体中に血が巡り、失われていた感覚が戻ってきた感じがした。
冷たいはずなのに、熱が指先から伝わってくる。
「爪痛い。」
「うん。」
「心臓も・・・痛い。」
「そっか。」
今まで痛くなかったところが急に痛みだした。
逆に奥歯の痛みなんてもうどこかに行ってしまったかのように何も感じなかった。
「・・・ごめんね。」
そう言って背中から抱きしめられた。
手はあんなに冷たいのに身体もこんなにも温かい。
心臓の痛みが和らいでいく、ざわついた心が静まっていく。
「なんで謝るの。」
「謝りたかったから。」
「なんだよそれ、変な奴。」
「そうだね、変だね。」
「・・・プリン食べたい。」
「その前に前髪切ってあげる、邪魔でしょ?」
「プリン食べたい。」
「わかった、プリン食べてていいよ。その間に切ってあげるから。」
「・・・プリン以外にレパートリー増やせよ。いつも同じ。飽きる。」
「別に必要ないでしょ、いくつもなんていらないんだから。」
結局いつも一緒。
もう何度も同じことを繰り返してる。変化なんて、変わり映えのすることなんて何もない。
だけど、それでもいいと思える。
このぬくもりとプリンの甘さがあれば麻痺なんてどうでもよくなってしまう。
そう思う俺の心臓はもうとっくに止まっているのかもしれない。