人魚姫
その垂れた眉の優しげな笑みが俺の心に種を植えた。種が芽吹くと、それは恋という名を持ち、日に日に成長を続けるのだった。先輩は副保健委員長で、二日に一辺当番があり、昼休みと放課後に保健室にいるということだった。怪我をしたわけでも、具合いが悪いわけでも、サボるわけでもなく、俺は先輩に会いに行った。先輩は笑みで迎えてくれ、時には頭を撫でてくれ、俺はそれを嬉しく思った。あばたもえくぼと言うわけで、気弱そうな眉も、小柄な体躯も、小さな声も全て愛しく思った。恋は蕾になり、開花を決意した。ほんの数秒で枯れてしまうかもしれないが、リスクよりもチャレンジだ。
秘密を打ち明ければ、幸運なことに、先輩は、嬉しいなと呟いたのだった。
手を繋いで、抱きしめあって、キスをして、それから。目を見れば何でも通じるような気がした。俺たちにはお互い、他の人にはない特別通じ合う情があるような気がした。真実を知ればそれはとても、とても残酷な話だったけれど。
閨でも先輩は声を上げないように、耐えるのだった。それでも漏れてしまう吐息のような悲鳴や、喘ぎ。それが愛しかった。
後ろから先輩を抱え込むようにして、眠る。暖かくて、柔らかな気持ちになって、安心する。腕に抱えた先輩の存在は確かで、泣きたいほど満たされて、子どもみたいに甘えたくなる。先輩の黒い髪に顔を寄せて眠気に誘われるまま、目を閉じた。腕の中の先輩が身を捩り、向き合う姿勢をとった。
『千章(ちあき)、眠った?』
先輩の小さな声が、薄い膜の向こうで聞こえた。眠ってはいない、起きてもいないけど。体に力は入らず俺は何の反応も返せなかった。
『寝たか…』
先輩が優しく、俺の髪を梳く。
『千章は、お父さんによく似てるね。一目見て驚いたよ…』
初めて聞く声だった。先輩が普通に喋っている声。けれど、聞き覚えのある声。
『ごめんな…俺、本当は、お前の…』
最後は涙声になり、泣きじゃくる意味のない言葉に変わった。
…先輩の声、親父にそっくりだ。
夢の中で思い出すのは、先輩の、十章(とあき)という名前。それから、親父から聞かされた、俺に異母兄がいるという話。大して興味もなく、写真すら見なかったこと。保健室での先輩の驚いた顔。特別通じ合う情。先輩の閉ざした声。
全てが一つの答えを証明し、俺は絶望に暮れる。
人魚は声を失う代わりに下肢を得た。けれど、そうでなかったらこんな間違いは起きなかったのに。愛してはいけなかった。禁忌を犯してしまった。
愛しているけれど、きっと、人魚は海に帰るだろう。