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人魚姫

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先輩は寡黙で、喋るときにもか細い声でぼそぼそと呟くように喋った。普通の距離では聞き取れぬので、先輩の声を聞こうと思えば自然と先輩との距離は近くなった。親愛の情が、恋に変わったのはわずか半月の出来事で、めったに怪我もしない俺が保健室の常連になったのもその頃からだ。出会いのきっかけは、みっともないくらい大袈裟に俺がすっ転んで、今でもケロイドが残っているくらいの怪我をしたこと。ちょうど当番をしていたのが先輩で、俺を見ると流血に驚いたのか目を丸くしていた。見た目は酷い物の、ただの擦り傷だったそれを、先輩は懇切丁寧に治療をしてくれて、小さな声は聞き取りづらいと思ったけれど、先輩には好印象を持った。それから二日後に、俺と同様に見事にすっ転んだダチに連れ添って保健室に行ったときにも先輩はいて、やっぱり丁寧に治療をして、そして俺と目が合うと笑った。
 その垂れた眉の優しげな笑みが俺の心に種を植えた。種が芽吹くと、それは恋という名を持ち、日に日に成長を続けるのだった。先輩は副保健委員長で、二日に一辺当番があり、昼休みと放課後に保健室にいるということだった。怪我をしたわけでも、具合いが悪いわけでも、サボるわけでもなく、俺は先輩に会いに行った。先輩は笑みで迎えてくれ、時には頭を撫でてくれ、俺はそれを嬉しく思った。あばたもえくぼと言うわけで、気弱そうな眉も、小柄な体躯も、小さな声も全て愛しく思った。恋は蕾になり、開花を決意した。ほんの数秒で枯れてしまうかもしれないが、リスクよりもチャレンジだ。
 秘密を打ち明ければ、幸運なことに、先輩は、嬉しいなと呟いたのだった。


 手を繋いで、抱きしめあって、キスをして、それから。目を見れば何でも通じるような気がした。俺たちにはお互い、他の人にはない特別通じ合う情があるような気がした。真実を知ればそれはとても、とても残酷な話だったけれど。


 閨でも先輩は声を上げないように、耐えるのだった。それでも漏れてしまう吐息のような悲鳴や、喘ぎ。それが愛しかった。

 後ろから先輩を抱え込むようにして、眠る。暖かくて、柔らかな気持ちになって、安心する。腕に抱えた先輩の存在は確かで、泣きたいほど満たされて、子どもみたいに甘えたくなる。先輩の黒い髪に顔を寄せて眠気に誘われるまま、目を閉じた。腕の中の先輩が身を捩り、向き合う姿勢をとった。
『千章(ちあき)、眠った?』
 先輩の小さな声が、薄い膜の向こうで聞こえた。眠ってはいない、起きてもいないけど。体に力は入らず俺は何の反応も返せなかった。
『寝たか…』
 先輩が優しく、俺の髪を梳く。

『千章は、お父さんによく似てるね。一目見て驚いたよ…』
 初めて聞く声だった。先輩が普通に喋っている声。けれど、聞き覚えのある声。
『ごめんな…俺、本当は、お前の…』
 最後は涙声になり、泣きじゃくる意味のない言葉に変わった。

 …先輩の声、親父にそっくりだ。

 夢の中で思い出すのは、先輩の、十章(とあき)という名前。それから、親父から聞かされた、俺に異母兄がいるという話。大して興味もなく、写真すら見なかったこと。保健室での先輩の驚いた顔。特別通じ合う情。先輩の閉ざした声。

 全てが一つの答えを証明し、俺は絶望に暮れる。


 人魚は声を失う代わりに下肢を得た。けれど、そうでなかったらこんな間違いは起きなかったのに。愛してはいけなかった。禁忌を犯してしまった。

 愛しているけれど、きっと、人魚は海に帰るだろう。
作品名:人魚姫 作家名:まちだ